The sun rises again.

フィクション

同期に対して思うこと

おそらく彼は鬱なのだろう。かれこれ長いこと大学で彼の姿を見たことはない。

去年からその兆候はあった。大学院の授業では、ちょくちょく姿を見ていたが、ゼミの発表を見ている限り、自分の研究は殆ど進んでいないようであった。

教授が、いいように言えば優しく、悪いように言えばやる気のない生徒に対して、指導をする気が全く無いので、去年のうちはこれじゃあ研究にはならないかもしれないね、程度のコメントで終わっていた。彼からすれば、その場はしのげていた、とも言えるのかもしれない。ともかく、そうやって月日は経って、いよいよ一つの論文としてまとめ無くてはならない時期に達した時、彼はゼミに来ないという選択肢を選ぶようになってしまった。

それはおそらくだが、彼自身「もうごまかしが利かないところまで着てしまっている」ということを十二分に理解しているからなのだと思う。そして、選んだ選択肢が、それそのものから逃げるというものだった、そう僕は理解している。

正直に言えば、他にも方法はたくさんあったはずであると思う。例えば僕に相談してくれるだけでも力になろうと本当に思っていたし、教授や助教に言うなり、あとは教務課とか他の頼れる人でもいいだろう。そういう人に、自分の辛いことを共有するだけで、かなり気持ちは変わったのじゃないかと思う。

 

と彼に対して、もっとやることはなかったのかな、と思う一方で、僕にも問題があったのではないか、ということも考えるのだ。

それは僕が、彼の発表の態度があまり好きではなかった、ということに起因している。

彼の発表は、客観的にみてもひどいものだったと言える。それは何故かと言うと、内容が薄いとかそういうことではなくてに、ちゃんと準備をしていないということが、あからさまであったからである。

ゼミであれば、研究室のメンバーがみんな集まる。そうなると、時間自体は2時間でも、みんなの2時間を拘束することになるのだから、それに対しては、最低限の礼儀があって欲しいと、僕は思うし僕自身が発表するときもそれを意識して準備をしている。それが彼には、欠けているようにしか思えなかったのだ。要するに、こちら側が軽く見られている、ように感じたのだ。

だから、彼に対する態度は、どこかよそよそしいものにならざるを得なかった。

他のメンバーはわからないけれど、僕に限って言えば、悪いように言えば「仲間はずれ」にしようとするような気持ちが、起こることもしばしばあった。

しかし、そこでやるべきことは、僕の思っていることを率直に言うということだったように思える。おそらくその場は気まずいだろうし、彼も悲しいかもしれない。しかしその後のもっと大きな悲しみに比べれば、そんなものは履いて捨てるような、小さな心の動きだったのかもしれない。

 

結局は僕もそうやって大事なことから逃げているという事実ではまったく変わり無いのであって、彼が陥ってしまったことと、僕は本当に間一髪違っているというか、実相はほとんど一緒なんじゃないか。もっとやれたことがあるんじゃないか。

そして本当のことを言えば、僕だって本当に大事なことから逃げていることが、たくさんあって、他人事のようにこうやって文章にしていて良いのだろうかと思うのだ。僕も彼も、たぶん何も変わらないのだ。違いは僕が勝手に思っている差異よりも、もっともっと小さくて、勝手に線引して「あーあ大変なことになってるな」と対岸の火事として処理してしまっている僕が、とても嫌になる。

それはそうやって線引をしないと、僕自身がどうにかなってしまいそうだから。僕の精神の段階が、彼という気質が僕の中にもあることを本当に認めてそしてその上で行動する、判断するという段階まで、至っていないのだ。そうしてとても、やるせなくなるのである。

仕事と生きること

内定先をかえようと思い、都合をつけてもらって、新しく行きたいと思っている会社の代表数名の方と会ってお話兼飲み会に参加した。

 

はじめはとても緊張して、上手く喋れなかった。僕を紹介してくれた人もなんとなく緊張していて、それが伝わったのかもしれない。結果的には、向こうの方がとても気さくで、楽しく会話をすることができた。

仕事の話や、人生観の話、今後どういうことをやりたいか、など。人生の根幹に関わるようなことを、お酒が入っていたとは言え、本気(のように僕には思えた)で話をしてくれる人というのは、まあそうそういない。そして居たとしてもそれが心に刺さる、記憶に残るようなものであったことは、今までで数回しか無い。

簡潔に言ってしまえば、本気で話ができて僕は楽しかったのだ。主義思想が似ているというのも会ったけれど、それをしっかりと自分で考えていることがとても印象的だった。

僕が思っている以上に、生きることということと、仕事をするということは、重なるところがとても大きいのかも知れない。

 

今後どうなるかはわからないけれど、今は僕はあの会社で仕事をしてみたいと、本当に思っている。

右足のことを考える日

最近ちょっと太ったように思う。ズボンを履いても少しふくらはぎのところが張っているように感じることが多い。体重で言うとそれほど変わっていないので、筋肉がなくなって脂肪に置換されているのだろう。

理由は簡単で最近食べ過ぎなのである。そして飲み過ぎ。

飲んでいると、いらないものまで延々と食べる悪い癖が、最近助長されている。食べたって別にその場で少し楽しいだけなのに、なぜ食べようとするのか。冷静になった今考えればまったくもって意味がわからない行為だけれど、そのときはやりたいからやっているのであって、人間とはよくわからないと常々思う。

理性が飛ぶとうのはあのことを言うのだろうと思っている。普通にしているときはなんとも思っていないこと、やろうと思っていることが、全くできなくなる。あるいは抑えていることを、抑えることができなくなる。

食事や飲むという方向にこれが発揮されてしまうと、僕のようにただ太っていくだけであるが、こと言論に関して言えば、この「理性が飛ぶ」という現象は心地が良いときがある。僕は常に何かごとを考えていることがとても好きなので、そうやって「理性が飛ぶ」と自由に発言ができた気分に一瞬なるのである。これが心地よいというか、思いもよらない発想となることがしばしばある。しかしこの自由な発言というのも結局はお酒によってもたらされたものでしかなくそういう意味では下劣極まる理屈に酔って発生したゴミのようなものであるし、そもそも考えることが好きなのであればちゃんと考え抜く勇気をもって考えるべきであって「理性を飛ばす」なんていうのはそこから逃げている、というのも真っ当である。

しかし、これは楽しいのだからなかなかやめられない。飲みすぎた翌日に頭が薄ぼんやりとしてシャキッとしない時には、もう飲まないなんて思っているんだけれど。

 

今日もその飲みすぎた翌日であって、朝からシャキッとしたいがためにランニングをした。そして右足のアキレス腱を再び故障した。

右足は、先週のいつかの飲み会で、泥酔に泥酔を重ねて、四条の飲み屋から下鴨の下宿までをだらだらと歩いているときに痛めていた。その時は茶色のチャッカブーツを履いていて、酔っ払ったせいでちゃんと歩けなくなり、ブーツがかかとの上部分を圧迫したためになったのであろう。

しかしこの痛みが微妙なのである。歩こうとするときは特に痛くない。しかし走ろうとすると痛い。だが走っているとちょっとすると痛みが引いていって、少し違和感がありながらも走れる。そんな様子が何日か続いて、少々の痛みなんてこと無いと言い聞かせながら毎日ランニングをしていたのだが、どうも痛みが強くなるように感じられて、ここ2日ほどはランニングをしていなかった。

痛みも引いて、もう走れるだろうとよんで、今日走ったのだが、終わった今の痛みが今までで一番強い。とても痛い。座っていても、アキレス腱の部分が張っているのが感じられる。

医者に行ってもおそらく「安静に」と言われるのはわかっていて、「なぜ走ったんですか、阿呆なのですか」と言われるのもわかっている。しかし、実際にやってみるまで信用ならない阿呆なので、誰にどう言われようとおそらく僕は走って、そして足を痛めるのだ。今日みたいに。

 

右足を自由に使えないというのは、ちょっとばかり不便である。部屋を移動するのにも足は使うし、寝ていたってちょっと角度に気をつけないと痛みが伴う。

なので今日はずっと右足のことを考えていた。

意外とこういうことがないと、自分に右足も左足もついていることを意識することはない。それはそこに当たり前にあるからだ。そしてそれがない人もいる。

移動する時、立っている時、座る時、いつだって右足は使う。でもそれは右足をこう動かして、という意識としては現れない。僕は「移動したい」「あるきたい」と思っている。右足がこうなって欲しい、という願いは、服屋の鏡の前でちょっとX脚になった右足をみて「まっすぐにならねえかな」と思うような時ぐらいである。

今日の僕のように、右足を痛めて初めて、こういうときに右足を使うんだ、ということが否が応でもわかる。機能として失われて初めて、右足があることの意義がわかる。しかしそれは強制的に「わからせられている」のであって、あまり賢いとは言えないように思う。自分の経験を大事にすることはいいことであるけれど、人間には想像力がある。豊かに想像すれば、右足が上手く使えなくなる世界を、右足がちゃんと動く人でも、考えることができるだろう。それは実際に右足が無い、使えない人からすれば「違う」のかもしれないけれど「ちゃんちゃらおかしいぜ」とはならないように思う。

 

こんなことを思っていると、この右足というのは別に右足そのものを指さず、もっと一般的なものとして認識することもできるのではないか、という気分になってきた。

それは例えばお金があるとか、どこの国で生まれたとか、性別とか、職業とか。

そうなったらどうなるだろうか、ということを考えて、僕だけではなくてみんながちょっとでも良くなったらいいなということを考えたい。そう思っていた。

でも右足は痛いままだ。走った僕が悪い。けれど考えれたのでまあよしとする。

今日は良い日。

昨日とある友達と久しぶりに会った。前に会ったのは僕が就活をしているときであったから、かれこれ4,5ヶ月ぶりだろうか。前あったときよりも少し痩せて見えた。

彼女は前の職場で上司にいじめられて(そういうと彼女はそれは違うというだろうけれど、客観的に僕が聞いている限りではいじめに近い仕打ちを受けていたように思う)、心を駄目にしてしまった。その後少し休職して、今はリハビリを兼ねて仕事場に行くだけ(と言っても仕事はしない)というふうな毎日を送っているらしい。

休職扱いなので、彼女に仕事はない。代わりに今の上司からは「とりあえず悟りを開け」と手塚治虫ブッダを読むように言われているらしい。悟りを開かないと仕事なんてできるわけがない、とは彼女の上司がよく言う言葉らしい。いい仕事場につけてよかったなと安心した。

 

喫茶店をはしごしながら、そして時間がうつろうにつれて場所を居酒屋にかえて、色々な話をした。

付き合っている相手のこと、日本の社会のこと、アメリカの選挙のこと(これにはふたりとも話をしたいことが山ほどあって話題が尽きない!)、社会保障のあり方のこと、仕事のこと。などなど。

 

いろいろと話をしすぎて細かいことを忘れてしまっているのが少し残念だが、まあそれも含めて話をするというのはとても楽しいことだ。

 

こうやって話をできる仲間がいるということは、とても恵まれているなと感じる一日だった。

今日は良い日。

最近の出来事

朝からとても寒い。もう京都の秋は終わったように思える。とても寒い。布団から出るのが億劫になってきているのを感じる。時間は11時を過ぎている。お昼過ぎからのゼミに出るために体を起こす。
シャワーを浴びて、服を選びながら、ここ数日にあったことを考えていた。
この数日で、本当にとても大切なことが幾つかあって、その予定が全て終わったので、僕の中ではほっとしている。

一つは仕事の話。
仕事と言ってもバイトのようなもので、物理の教材をもくもくと作っていたのだが、それにだいぶ落ちというか、ケリがつきそうだということ。この仕事は本当はやるべきではなかった、そう確信している。理由は簡単で、割に合わないからだ。
物理の範囲をすべて網羅するような、教材を一から、しかも既存の教材から持ってくると著作権的にアウトだからセンター試験と各大学の過去問と後は創作で。これはなかなかにしんどいものがあった。まず、それを解いて物理が理解できるような流れを作ることが難しい。そしてその後の問題の選定段階でも、わかりやすい簡単なものから、だんだんと難しく、そして有用な問題を、となると適当にホイホイ入れていくわけには行かず、ここも大変だ。
やっていて一つ収穫だったのは、僕の勉強方法はかなりがむしゃらに近いものだったのだな、という振り返りができたことである。正直選んでいて、全部とけばいいじゃんと何度思ったことか。僕はおそらく、すべての問題を解いている。そして理解した。であるから、貴方も全て解いては如何?と言いたくなるのだ。まあそれでは仕事にならないから、選ぶのだけれどね。

二つ目は、彼女のご両親に挨拶に行ったこと。

挨拶と言うか、僕が彼女の実家に行って酒とご飯を死ぬほど食べた、というのが正しい事実であるのだが、アレは挨拶といっても問題ないであろう。

まず第一に人の家にあまりお呼ばれされたことがなく、そして彼女もできたことがない僕にとっては、これは本当に胃が痛い出来事で、別に行きたくないわけでもないし、彼女と適当に付き合っているから重たいことになりたくないとかそういう意味ではなく、純粋に「なれていないことはやりたくない」のだ。

格好から、言葉遣いから、何から何まで、どれが正解なのかよくわからない状況に置かれることが本当に苦手であって、今回も例外ではない。唯一救いだったのは、彼女の両親も彼女も酒をとても良く、そして気持ちよく飲む人たちであったということだ。心の弱い僕は、酒を勧められるがままに飲むことにより、酒の力をかりてその場を乗り切ろうとしたのである。実際酒が回ってきて、自分が何を言っているのかわからない状態になってからはだいぶ心は楽になった(別に酩酊しているわけではない)。

後から彼女の話を聞いた限りであると、別に悪いようには思われていないようで、スイスイとお酒を飲み笑いそして飯を食う人間、と認識されているようであった。こういうときに、自分が酒をまあそれなりに飲めて、かつ飯をたくさん食べられる人間でよかったと思う。普段は太るから嫌としか思わないのだが。

 

三つ目はこれからの仕事の話。内定先を変えるつもりでいる。

これについては、半分思いつきのようなところがある。

それは何かというと、このまま東京にいって就職したところで別に面白くないな、という感覚である。つまらない。これにつきる。そしてつまらない上に、だれかよくわからない人に雇われて、搾取されるわけである。なおのことつまらない。

 

そうであるならば、もっと別に評価してくれていて、一緒に働いていて楽しいしかつやっていることの自由度も高いところで働いたほうが圧倒的に面白いと思ったのだ。

これは現在進行系だから、どうなるかわからない。そういう意味ではこれは「このときはそう思っていたのだな」という歴史になるかもしれない。どっちに転んでもどっちもそれなりには面白いと思う。でも僕はもっとも面白いと、現時点で思う方向に行きたいなと、そう思う。

 

 


大学についてゼミを聞いた。

後輩の研究題目がそろそろ決まり始めているようだ。良い研究ができればいいな、と心の底から思う。僕は良い研究をしているとは言えない。僕のようにならないでほしいと切に願う。


家に帰ってきて、走ろうと思ったけれど右足のアキレス腱が痛むので、今日はやめにした。今日は家で考えろとそう言われたような気がした。

まあやることはたくさんある。アメリカ大統領選挙でまさかのトランプが勝ったことについてだったり、最近買った感じの使い分け解き明かしを読んだり。とりあえずは久しぶりにお風呂にお湯を張って温泉の素を入れて、じっくりと温まろうと思う。今度はじっくり考える番である。

生きる目的


彼女は言う。

「何も残らないものなんて無い。」
「何があって欲しいか、自分がどうなりたいか、それが大事なんだよ。」
「明るく前向きで居たいから。それにはなんでも楽しむこと、が信条だから。」

何かを残すために生きているわけではないし、自分がどうなりたいかなんてことを考えることももう無い。問題はそこではない。自分はこうやって生きているがどこへ向かっているのか、それが全く見えないからこうやって淪落してしまっているのである。

僕は何がしたかったのか、皆目検討がつかない。何がしたいのか、よくわからない。別に目的なんてない、生きるだけだと言う人もいる。確かにそれはわかるが、そんな生を生きていられるような強さは僕には無い。何となく生きる?くだらない、それは死んでいることと対して変わらない。

お酒を飲んだり、ご飯を食べて、楽しもう。という人もいる。確かにそれはその場は楽しくなるだろう、しかしその一時の楽しみが終わった後の悲しさ虚しさ、そういったものは考えないのだろうか。最近、そうやって食べるご飯のあとのほうが、その前よりもよっぽど寂しいように僕には感じられる。これはもう麻薬みたいなもので、手を出してしまうと過食もしくはアルコール中毒になってしまう。半分手を出している僕が言うのもおかしいのだけれど。

一つ感じられるとすれば、彼女の優しさだろうか。こちら側にいてほしいという思い。それは感じられる。
しかしそれは僕の癒やしになるかと言われると、なっていない。それはなぜなのかを考えていた。

一つ思うのは、僕の原体験として、社会というものから追い出された経験があるということである。小学校のときだっただろうか、僕は算数がとても良くできて(これは多分客観的事実である)そして人の気持がわからない、集団行動ができないタイプの少年だった。当然だが、いじめにもあったし、先生からも嫌われた。当たり前である、自分が持っている知恵や知識をひけらかしていたのだから。僕はそこから、集団に再びはいるべく、思考に何重かの敷居を作って、なんとかかんとか世の中からはぶれないようにこの年まで生きてきた。そのコアが最近になってまた動き始めているように思う。というより、敷居を作ることに疲れてしまった。そう思うのである。

僕が本当にしたいこと、それはこの世の中では認められないから、それっぽいことを出し続けてきたが、それに疲れてしまった。そう言えるのかもしれない。だから最近富みに余裕がない。ポイ捨てする人が許せない、資本主義にのっかかってシステムを用いて合法的に搾取している人が許せない、それに対して「しょうがない」といって特に行動もしない人々が許せない、誰も許せない。それは結局自分を許せないということである。この無力な自分、そしてそれをわかっていながら何もできない自分が許せない。今まではそれにカバーを掛けて、敷居を作ってなんとかかんとかやってきた。でももうそれも限界に近い。ごまかしが効かなくなってきている。

みんな程度は違えどもそういう折り合いをつけて生きていることぐらいは、わかっている。しかしその程度が僕にはちょっと大きくて、そしてそれを真面目に捉えよう、捉えたいというエゴが幾分が大きいように感じられるのである。

神経衰弱

最近何もしないということに耐えられない。何もしないというのは、本当に文字通りなにもしないというというより、生産的なことをせずに遊んだりするという意味あいである。要するに「パーッと遊ぶ」ができない。

昔は遊ぶとなったらやりたいことがいくらでもあった。ゲーセン、カラオケ、野球、ゲーム…。やりたいことは無限にあるけれど、時間とお金がない。そういう状態だった。

しかし最近はそうやって湧き上がる娯楽が無い。あるのは勉強もしくは読書。しかも読書と言っても少し気合を入れないと行けない本しか読みたくない。それは多分時間が無為に過ぎていくのが耐えられないからである。どれだけ必死に勉強して本を読んだところで、時間はすぎるしそれが無為な時間になることも当然あるだろう。逆に言えば別にかしこまった本を読まなくったって、それが有意義な経験になることもある。そんなことはわかっているが、できない。そして楽しくない。

そして実際に勉強とか本を読んでいるときに果たして本当に集中できているかというとそれはまた別問題であって、よくあるのは数ページ進んでから内容が何だったのか全く思い出せ無いというパターンである。どうしてこうなってしまったのか。謎であるが現状はこうだ。僕は神経衰弱。

神経衰弱少年となってしまったわたしにできることはなんだろう。とにかく思いつめれば治ったと坂口安吾は書いていた。考えすぎると病弱になって死ぬぞと夏目漱石は書いている。どうすればよいのだろう。とりあえあず坂口安吾っぽい解決を目指す。修行。修行。