The sun rises again.

フィクション

生きる目的


彼女は言う。

「何も残らないものなんて無い。」
「何があって欲しいか、自分がどうなりたいか、それが大事なんだよ。」
「明るく前向きで居たいから。それにはなんでも楽しむこと、が信条だから。」

何かを残すために生きているわけではないし、自分がどうなりたいかなんてことを考えることももう無い。問題はそこではない。自分はこうやって生きているがどこへ向かっているのか、それが全く見えないからこうやって淪落してしまっているのである。

僕は何がしたかったのか、皆目検討がつかない。何がしたいのか、よくわからない。別に目的なんてない、生きるだけだと言う人もいる。確かにそれはわかるが、そんな生を生きていられるような強さは僕には無い。何となく生きる?くだらない、それは死んでいることと対して変わらない。

お酒を飲んだり、ご飯を食べて、楽しもう。という人もいる。確かにそれはその場は楽しくなるだろう、しかしその一時の楽しみが終わった後の悲しさ虚しさ、そういったものは考えないのだろうか。最近、そうやって食べるご飯のあとのほうが、その前よりもよっぽど寂しいように僕には感じられる。これはもう麻薬みたいなもので、手を出してしまうと過食もしくはアルコール中毒になってしまう。半分手を出している僕が言うのもおかしいのだけれど。

一つ感じられるとすれば、彼女の優しさだろうか。こちら側にいてほしいという思い。それは感じられる。
しかしそれは僕の癒やしになるかと言われると、なっていない。それはなぜなのかを考えていた。

一つ思うのは、僕の原体験として、社会というものから追い出された経験があるということである。小学校のときだっただろうか、僕は算数がとても良くできて(これは多分客観的事実である)そして人の気持がわからない、集団行動ができないタイプの少年だった。当然だが、いじめにもあったし、先生からも嫌われた。当たり前である、自分が持っている知恵や知識をひけらかしていたのだから。僕はそこから、集団に再びはいるべく、思考に何重かの敷居を作って、なんとかかんとか世の中からはぶれないようにこの年まで生きてきた。そのコアが最近になってまた動き始めているように思う。というより、敷居を作ることに疲れてしまった。そう思うのである。

僕が本当にしたいこと、それはこの世の中では認められないから、それっぽいことを出し続けてきたが、それに疲れてしまった。そう言えるのかもしれない。だから最近富みに余裕がない。ポイ捨てする人が許せない、資本主義にのっかかってシステムを用いて合法的に搾取している人が許せない、それに対して「しょうがない」といって特に行動もしない人々が許せない、誰も許せない。それは結局自分を許せないということである。この無力な自分、そしてそれをわかっていながら何もできない自分が許せない。今まではそれにカバーを掛けて、敷居を作ってなんとかかんとかやってきた。でももうそれも限界に近い。ごまかしが効かなくなってきている。

みんな程度は違えどもそういう折り合いをつけて生きていることぐらいは、わかっている。しかしその程度が僕にはちょっと大きくて、そしてそれを真面目に捉えよう、捉えたいというエゴが幾分が大きいように感じられるのである。