The sun rises again.

フィクション

神経衰弱

最近何もしないということに耐えられない。何もしないというのは、本当に文字通りなにもしないというというより、生産的なことをせずに遊んだりするという意味あいである。要するに「パーッと遊ぶ」ができない。

昔は遊ぶとなったらやりたいことがいくらでもあった。ゲーセン、カラオケ、野球、ゲーム…。やりたいことは無限にあるけれど、時間とお金がない。そういう状態だった。

しかし最近はそうやって湧き上がる娯楽が無い。あるのは勉強もしくは読書。しかも読書と言っても少し気合を入れないと行けない本しか読みたくない。それは多分時間が無為に過ぎていくのが耐えられないからである。どれだけ必死に勉強して本を読んだところで、時間はすぎるしそれが無為な時間になることも当然あるだろう。逆に言えば別にかしこまった本を読まなくったって、それが有意義な経験になることもある。そんなことはわかっているが、できない。そして楽しくない。

そして実際に勉強とか本を読んでいるときに果たして本当に集中できているかというとそれはまた別問題であって、よくあるのは数ページ進んでから内容が何だったのか全く思い出せ無いというパターンである。どうしてこうなってしまったのか。謎であるが現状はこうだ。僕は神経衰弱。

神経衰弱少年となってしまったわたしにできることはなんだろう。とにかく思いつめれば治ったと坂口安吾は書いていた。考えすぎると病弱になって死ぬぞと夏目漱石は書いている。どうすればよいのだろう。とりあえあず坂口安吾っぽい解決を目指す。修行。修行。

僕にできること

風邪もすっかり回復して、動き回る元気ができたので最寄りの駅のパン屋まで散歩。小さな地元のパン屋さんというまあ別に取り立てて美味しいわけでもなく、かと言って気取った値段でもない、実に庶民的(という表現が良いのかどうかはわからないが)なパン屋さんで僕はこの店をすごく気に入っているのだ。

店にはいるといつもパンの耳がないかを探す。パンの耳をこのお店ではただで配っていて、金無大学生のみかただ。今日はパンの耳がなかったので大人しく食パンとサンドイッチ、それに小さな丸いパンをトレイに載せて会計を待っていた。

目の前にいたのは、いかにも浮浪者という感じのおじさんで、くたびれたノースフェイスのジェケットを着ていた。彼は会計のときにパンの耳を売ってくれと店の人に交渉をしていた。お店の人は困ったふうで、「これしかないのですが」と食パンの切れ端一枚を渡した。会計は1円。彼は1円玉がたくさん入ったビニール袋から一円を取り出し、会計をした。レシートも持って帰った。

僕はなんとかしたいと思った。少なくとも、お腹が空いているであろう彼の今の腹を満たす程度のお金は持ち合わせていた。100円ちょっとでパンは買えるのだ。しかしそれは偽善にすぎないこともよくわかっている。僕がいまそうやってお金を出したところで根本的な解決には何一つなっていない。本当に大事なのは彼がそうなってしまった境遇をなくすこと、そして彼がこれから生きていく術を見つけることを手伝えるような制度を作ること。それはわかっている。しかしそれは僕にはどうやっていいのかよくわからない。選挙に行けばいいのだろうか、市役所に行って「パンを買えないおじさんがいるんです」といえばいいのだろうか。よくわからない。

多分こういう人はたくさんいて、そして殆どの人はそれを見なかったことにしているのだろうと思う。かくいう僕もそうだ。僕も別に何かをしたわけではない。そう思ったことをこうやってこの誰も見ていないブログに書き連ねるぐらいしかすることができない。みんなの見ているfacebookに書くこともできない。それは書くことで「あいつは面倒なやつだ」と思われたくないからだ。糞。その程度の恐れと世の中がよくなったらいいなと言う思い、それを天秤にかけて自分の重みを重く取ったのは僕だ。糞。

僕にできることは何なのだろう。多分、少しでも行動に移すことなのだろうと思うけれど、自分に直接関係ないと、どこかで思っていて面倒なことをなかったことにしようとする物臭な心と相まって、僕は今日も特に何もすることはなかったのであった。糞。

 

そう言いながら、今日も僕はお腹いっぱいご飯を食べているのだ。糞。

kaze

昼前に起きて今日もランニング。10キロ。左足が痛いのもちょっと治ってきて、少しスピードを上げても走れるようになってきた。
その後は、珈琲屋にいってランチをして、授業。言語学の授業である。潜りの授業なのだけれど、話をしている先生がとてもたのしそうで、聞いているこちらもとても楽しい。情報系というか、工学部系の授業ではそういうものがあまりないように思える。先生の義務感が伝わってきてこちらとしても息苦しいというか。僕は文学部とかにいっても楽しめたんだろうなとよく感じる。

その後は古本市に言って本をぶらぶらと立ち読み。自分が知らない本があんなにもたくさんあること、知らないことが世の中にはたくさんあること、そしてその情報に500円そこらでアクセスできるということ、これは本当にすばらしいことだと思う。

そして相も変わらず今日も飲み会に出かけた。
場所は近所のこじんまりとしたきれいな居酒屋さんで、料理もとても丁寧に作っているのがわかる、とても気分の良いお店だった。河原町のまちなかにいくのもいいけれど、こういう田舎?というかハズレの方でこじんまりやっているお店も良いなと思った。

まあでも僕は前日飲んでいて少し昼ぐらいからも気だるさを感じていたから、本当はお酒を飲むべきでなかったように思う。でも飲んでしまう、それは夜がとても楽しいからだし、お話をするのが楽しいから。

そして問題なのはこの後に風邪を引いて熱を出してしまったということだ。久々に熱を出した、多分38°ぐらいになったように思う。今はだいぶ良くなっているけれど、一番悪かったときはもう何がなんだかよくわからない感じで、参っていた。人間色々考えたりするけれど体がちょっと悪くなるだけですぐコロっと行ってしまう。体も大事にしないとダメだな。ということで今日はねます。ゼミはお休みします。でも頭は痛いです。寝ます。

悪意

昨日あったことを書きたかったのだけれど、先程起こったことが僕の中で収まりがつかないので書く。

 

ランニングして帰ってきていると、目の前に車椅子に乗った爺さんがいた。彼は煙草を吸っていて、それを道端に投げたのだ。そして僕はそれを見た。

僕は基本的にこういう、公のルールを守らない人が本当に許せない。そういう質だから、爺さんに向かって本気で睨みつけてしまった。それこそ殺してやるぐらいの勢いで。

かれは罰が悪そうにその場を去っていった。映画とかだったら「おい爺よく聞け、てめえの家なら何をやろうが勝手だしその足は気の毒だ。でもてめえがやったことは許せねえ。わかったか爺」ぐらい言うのかもしれない。それぐらい言ってもいいという気持ちもどこかにある。

でもその一方で、言うてしまえば煙草一本で、そこまでの憎悪がでてきてしまう自分の心の余裕のなさに唖然としたのである。だまって捨てられた煙草をゴミ箱に捨てるぐらいでいいじゃないか。なにも殺すような目線でしかも爺さんを見なくてもいいだろうと。お前は相手がチャラチャラした若者だったら同じことをしたのか?と。

その答えには今は答えられないけれど、どんな相手であっても「おいこら」とまでは言わなくとも、せめて目線だけでも僕は貴方を嫌悪しています。という表現をするそんな勇気を持ちたいと思った。

泥酔そして泥酔

夕方からの論文紹介に参加して、特にやることもないのでそのまま研究室を後にし、生協の本屋へ。目当ては森見登美彦の新刊だったのだけれど、なぜか置いておらずなんとなくいつもは読まない男性向けのファシッション雑誌を手に取った。

そこにはおしゃれでかつ身長が高くてかっこいいモデルがたくさん乗っていて、購買意欲を煽るようなキャッチーなコピーが添えられている。これを見てこれをほしいと思う人がいる一方僕のようにその世界とこちら側との断裂を感じて悲しくなる人もいるのが面白いなと思っていた。
断裂とは、どうあがいてもそちらには行けそうにないという思いである。僕がいくら頑張っても身長は変わらないし顔も変わらない。スタイルぐらいかかろうじて。そう思うと、その人達から見れば僕は身体障害者であるようなもので、なのにも関わらず特にこれに関して救済はない。美しさは残酷。

そのあと一人でだらだらと家に歩いて帰っていた。つまらないので酒でも飲もうと酒屋へ行き、酒を買ったときに飲みに行きませんかという連絡が。喜々として行く旨を伝え急遽花金の飲み会になった。

結論から言うと、これはとてもひどい飲み会だった。僕はひどく酔っ払って、わけのわからないことを喚き散らし、どうやって帰ったかわからないが家についたときにはもっていた本はなくなっており、手にはローソンで買ったおにぎりと栄養ドリンクとお茶があった。

とても気持ちが高ぶっていた僕は、その後SNSになにやらつぶやいていた。というのもそこからの記憶が曖昧であるからである。内容を記すにはあまりにつらい。なぜかってとてもひどい文章だったからだ。ありていに言ってしまえば、要するに死にたいということらしい。

今思うととてもひどい。醜態とはこれを指す言葉である。一言言うなら「甘えるなよ俺」。結局僕は色々な嫌なことから逃げたいだけなのだ。それに対して、いろいろと言い訳をしている、ただそれだけ。理屈っぽいときは人は感情的である、というのは誰かの言葉だった気がするがよく覚えていない。理屈っぽく加工してけむにまこうと必死であった。誰をか、僕をである。僕が僕のことをよくわかろうとしていないこと、これが根本的な原因でありかつ諸悪の根源だ。