The sun rises again.

フィクション

自由と告白

昨日届いたJSミルの「自由論」を読む。一行一行が刺さる文章で、刺激的かつ内容もとてもおもしろくて、一気に読んでしまった。

多数派の感情が依然として純粋で激しいところでは、少数は多数に従うべしという要求はほとんど弱まるところが無いのである。
強制が認められるのは、唯一、他の人の安全を守るのが目的の場合のみである

個人の自由は社会から守られる必要があり、その自由が妨げられる場合というのは、他の人に迷惑をかけるときだけである、というのはよく聞く話である。しかし実際には社会の慣習や多数派の理論によって、個人の自由は、法律+世論によって不当に制限されてしまっている、というところまで話を持っていき、そしてそれが明確に記述されているのは、読んでいてとても気持ちが良かった。

夜、K氏、N氏と晩御飯に行く。ピザをもりもりと食べながら、共通の友人で、今少しこんがらがったことになっているG氏の話をした。端的に言うとこの4人(僕を含む)は友達だったのだけれど、G氏がK氏に彼氏ができたことを聞き、その訊いた場で告白をした。K氏は当然断り、G氏はそれに憤ったのかわからないが、様々なつながりを一方的に遮断している、という状況である。

K氏はやつのやることなすことに本当にうんざり、といった感じで、話とそのログ(ログが残るというのは怖いものである)を見た限りでは、まあG氏はあかんよなといった感じであった。

グチグチと、「自分がなぜ告白をしたのか本当に申し訳ない、僕やN氏にも申し訳ない(なぜ僕とN氏が出てくるのかが謎である)。でも本当に好きで、考えると夜も眠れない。一方的に色々と遮断したことは本当に申し訳ない。僕やN氏にはこれを言わないでくれ」など。


言い方は悪いがストーカーか、それに類する迷惑防止条例違反であった。

彼がなぜこうなってしまったのかを色々と考えていた。彼は普通にしていれば、まあいいやつなのである。そんなやつがなぜこうなってしまったのか。
まあ別に結論が出るわけではないし、結論を出すつもりもほんとうの意味ではないので「こんなことされると友達じゃいられない」とか、「これで断ったときになにかあったら責任が取れない」というK氏の話を聞くに徹していた。

問題の一つは、G氏が人の言うことを聞かないというところにある。というよりも、自分の行動を相手が受け入れてくれることに対しての疑念が全くない。普通に考えれば、3スクロールぐらいしないと全文が表示されないような、長文のメールを送るなんてしないだろう。しかし、おそらく彼は、それを相手が読んでくれるであろうことに対して疑問をいだいていない。もしくは抱いていても、それを送れば相手がどう思うかと、自分が送った時の達成感とか気持ちよさを天秤にかけたとき、自分の気持を優先してしまっている。

ミルの自由論ではないけれど、これは「相手に対して迷惑をかける」状況であるから、このG氏の行動は法律によって制限されないのであれば、僕やK氏、N氏といった世間から、罰則を受けざるをえないのだろう。またやつを含めて、飲み会をしたいのだが、それはいつに成ることだろうか。G氏がおとなになってくれることを望む。

僕の大好きな青髭

この世界はピラミッドの集まりだ。生まれ落ちた途端から、俺達はピラミッドに圧しひしがれている。家柄のピラミッド、貧富のピラミッド、能力のピラミッド。そして、幼稚園から大学へと連なるピラミッドの階段を、一段一段登るという形でおれたちは成長し、そのあとは会社や権力組織のピラミッドが待ち受けている。そしてその無数のピラミッドが集まって出来上がっているのがこの世界で、おれたちはみんなそのピラミッドの階段を息せききって駆け上らされ、そして自らその巨大な弱肉強食のピラミッドを創る小さな石になる。そんな世界のどこに自由があるんだ。(148p)

庄司薫の作品は、全体的に青臭い。それは扱っている題材がそうであるからしょうがないのだけれど、この青髭に関しては、その青臭さが特に磨きがかかっているように思える。これは別に悪い意味ではなくて、若者というある種の人間たちがぶち当たる壁について、丁寧に描写しているということを指して言っている。そしてその若者というのに僕も含まれている。

始まりはよくある若者っぽい行動である。自殺だの奇抜なファッションだの世の中に迎合できない気持ちだの。そしてそれに対抗する社会の代表として、自殺を記事にしようとする新聞記者が登場する。ここだけ見れば、すごく浅いただの小説であるのだが、そこから先が面白い。

まず第一に、若者っぽい行動をしている人間が、若者が失敗することを一番良く知っていること、そしてその若者を追い立てる社会の側として立ち現れているはずの新聞記者が、実は一番若者らしい気持ちを捨てられていないことが明らかになるのである。

この逆説こそ、人間が生きていく上で一番つらいことの一つであろうと、僕は考えている。
希望を持ち続けるがゆえに絶望して死にたくなり、絶望を絶望として痛いほど知っているがゆえに、死にきれない。
単純な若者対社会という二項対立が、この仕掛により立体的に立ち上がって、もはや敵が何なのか、よくわからないという状態になる。

人生というのは、若さ対社会なんて簡単な構造では理解できないし、そんなふうなことを期待した貴方は、社会のことを本当に考えていますか?という風に作者に問われているように、僕には感じられた。

そして実はこの敵というはつまり、人間が生きているということ、生きるという行為に常につきまとうことであると、物語では語られる(少なくとも僕にはそう思える)。様々なメタファーが飛び交い、正直すべて理解できているとは到底思うこができず、推察であるが、作者はこの作品を通して、人間が生きることの大変さそしてそれを矮小化させることの意味の無さを問いかけているのではないか。そう感じた。

研究室に行かない

昼頃に起きる。

前日少し酒を飲みすぎた。

原因は、一週間ほど前に半分ほど飲んだコノ・スルの赤ワインが残っていて、このままではだめになってしまうからいっその事今日全部飲んでしまえ、と思ったことにある。どうせなら炭酸も飲みたいなと思って500mlのロング缶の麦酒(といっても発泡酒だけれど)を買ってきて、ツマミをつくる。

白菜と豚肉を炒めてターメリックを入れたやつで、僕好みに辛めに仕上げてある。からさの元はチリペッパーである。チリペッパーの辛さは、豆板醤とかカラシの辛さと違うなんとも優しさのない辛さで、僕はこのヤケクソに辛い感じが好きなのだ。

晩酌を始めるとやはり麦酒は美味しい(発泡酒)し、コノ・スルも思っていたよりも駄目になっていなくて、美味しい。お酒が回って調子が良くなってきて、よせばいいのにウイスキーも飲み始めて、気づいたらウイスキーの残りもなくなっていて、しかも気づいたら追加でふかし芋も食べてしまっていた。

ふかし芋は別にすでにできたものが合ったのではなく、その場で作ったのである。レンジを使えば15分あれば作ることができるのだが、酔っ払った頭と体を頑張って使ってまで芋を食べようとする自分の浅ましさと胃袋への忠実さに、唖然とするしかない。まあその空腹はおそらくアルコールによって作られたものなのだけれど。

そんなふうにだいぶ飲んだので、昼間で寝ていた。

前日食べすぎたので、お昼は抜いて珈琲だけ。

15:00からのゼミに出席して、先生と1時間ほど研究の話をした。おそらく研究の報告に全く来ない僕に業を煮やしたのだろう、先生の方から「ちょっと話をしましょう」とアクションがあった。最近研究室に行くのをサボっているので、先生と研究の話をするのもかなり久しぶりである。

研究室に行きたくない理由としては主に2つあって一つは家でもいろいろと考えたり数式をいじったりできるということがある。

基本的に家が大好きで、できることならパン屋にパンを買いに行く時と晩御飯の買い出し以外で家から出たくない。なぜなら家には僕が必要とする者がずらっと並んでいるからだ。いつでも珈琲は入れ放題飲み放題だし、ちょっと気が向いたら哲学でも小説でも読むことができる。眠たくなったらベットで一眠りすることもできる。腹が減ればそばを茹でて食べることもできる。僕の欲求はだいたいこんなもので構成されていて、全て家で事足りてしまう。なので、絶対に出ないと駄目な時、たとえばゼミがあるだとか、就活のイベントがあるだとか、そういった時以外は家にこもりたいのだ。

もう一つは研究室が快適ではないということがある。パソコンも揃っているし、研究室にも珈琲メーカーはあるし、電気は使い放題エアコンはかけ放題ではある。しかし空気が悪い。空気というのは文字通りの意味と、雰囲気が悪いという意味の2つ両方共だ。

まず研究室はカビが生える。とにかく生える。珈琲を入れたフィルターを捨てるのを忘れて次の日研究室にくると、大量のカビが生えている。尋常ではないスピードである。これは明らかに人間にも悪影響を及ぼしているような気がしてならない。肺に胞子がコロニーを作っては困るのである。

雰囲気に関しては、研究室自体の会話がとても少ないということがある。最近はだいぶ話をする空気になっていたが、一時期なんかは挨拶もないし、全く一言も発さずに5時間ぐらい勉強だけして帰るなんてこともあった。これは積極的に僕が声をかけることでなんとか回避できつつあるので、そこまで大きな問題ではない。

というわけで、家から出たくない+研究室が嫌という二重苦により、僕は研究室に極力行かない。まあでもたまには行って、先生に教えを請うたり同期と話したり研究したりしたほうがいいのはわかっているのだけれど、もう卒業すること以上のことをしたくないししない、と決めてしまっているので、僕は多分これからも極力大学へ行かないだろう。

良いのだ、それで卒業ができれば。

別に家にいるから勉強ができないわけではない、研究ができないわけではない。朝はちゃんと起きているし(今日は寝坊したが)、本も最近は読むようになってきた。

昨日より、何かしらでもいいから一歩進んだ自分になること。

それさえ達成できていればいい、という風に思うようになった。

昔よりも自分に対して期待しなくなったということもあるかもしれないが、あまり深刻に考えているとそれこそ精神と体を壊してしまうことも、経験として認識しているからなのかもしれない。

新しい習慣

この間、仕事についてお話をして元気が出たのもあって、精神がだいぶ落ち着いたように思う。足をけがしてランニングできなくなって体力が余っているから元気が出たのかもしれないけれど、僕の感覚としてはこれは明らかに精神の作用であるように思える。

ざっくりというと、我慢ができるようになった。

ご飯を食べるのにしても「今日はこのへんにしておこう」でやめられるようになったし、ちょっと気分を害することがあっても「まあいいや」で流せられるようになった。心に余裕ができているのである。

正直まだ数日だし、三日坊主になるかもしれないから大口を叩くのは止めておくけれど、このままいいように続けばいいなと思う。

加えて、落ち着けるような努力もしようと思って幾つか新しく始めたことがある。一つは毎日風呂に入ること、もう一つはコーヒーの代わりに温かいお茶を飲むこと。

一つ目について言えば、僕は別に風呂に入らないわけではない。どちらかというと、入りたがりな方だ。温泉にも好んでいく。

しかし家で湯船に湯を張るのが、どうしてもめんどくさいのである。なので今まではささっとシャワーで髪の毛を洗って体をさっと流して、ぐらいで終わらせていた。第一湯がもったいないじゃないか、という尤もらしい言い訳もついてくる。

しかしよくよく考えてみれば、風呂というのは入るととても気持ちがいいものだ。
阿呆のようなコメントだけれど、入っているときの安心感といい、出たあと体がぽかぽかと発熱していることを感じられる瞬間(ただし冬に限る)は、何事にも代え難い気持ちよさがある。それに湯の温度による発汗効果もあり、リフレッシュできる。

事実風呂に入り始めて数日だが、もうこの気持ちよさが癖になって、今日も帰るなり一番に風呂に入った。そして風呂の中で本をよむ。これがとても良い。誰にも邪魔されないので、集中して本が読めるし、風呂に入っていても飽きない。程よく汗をかいたら、本を洗面台においてシャワーで流す。なんと気持ちのいいことだろう。これは一人暮らしで湯を張っていない人に啓蒙をする勢いで気分が良い。

二つ目については、僕は明らかに珈琲を飲みすぎている。一日に1リットルぐらいは軽く飲む。珈琲基地外である。
そして別に真面目に、一杯一杯を入れてその結果として1リットル、なのではなく、珈琲メーカーで大量生産、そして暇があれば飲むというもったいない飲み方をしている。そのせいか寝付きが悪く、睡眠が不規則になっているのである。

これを改善すべく、夜のどが渇いたら温かいお茶を入れるようにした。大したお茶ではなく、おーいお茶のパックのやっすいやつだ。台所に行ってやかんで湯を沸かし、お茶を作る。珈琲ばかり飲んでいた僕にとっては、久しぶりのお茶は新鮮で、とてもほっこりする。何よりこの煎れる過程が楽しい。本来こうやってじっくり味わって飲むものであって、水分がほしいだけならば水を飲めばよいのである。

この2つの習慣を定着させられれば、だいぶ真人間になれるような、そんな淡い期待を持っている。

ちょっと前に比べたら、だいぶ落ち着いたなぁと、ここまでかいて思っている。こんな生活のこと、ほとんど考えずにずっと酒しか飲んでいなかったなぁ。

同期に対して思うこと

おそらく彼は鬱なのだろう。かれこれ長いこと大学で彼の姿を見たことはない。

去年からその兆候はあった。大学院の授業では、ちょくちょく姿を見ていたが、ゼミの発表を見ている限り、自分の研究は殆ど進んでいないようであった。

教授が、いいように言えば優しく、悪いように言えばやる気のない生徒に対して、指導をする気が全く無いので、去年のうちはこれじゃあ研究にはならないかもしれないね、程度のコメントで終わっていた。彼からすれば、その場はしのげていた、とも言えるのかもしれない。ともかく、そうやって月日は経って、いよいよ一つの論文としてまとめ無くてはならない時期に達した時、彼はゼミに来ないという選択肢を選ぶようになってしまった。

それはおそらくだが、彼自身「もうごまかしが利かないところまで着てしまっている」ということを十二分に理解しているからなのだと思う。そして、選んだ選択肢が、それそのものから逃げるというものだった、そう僕は理解している。

正直に言えば、他にも方法はたくさんあったはずであると思う。例えば僕に相談してくれるだけでも力になろうと本当に思っていたし、教授や助教に言うなり、あとは教務課とか他の頼れる人でもいいだろう。そういう人に、自分の辛いことを共有するだけで、かなり気持ちは変わったのじゃないかと思う。

 

と彼に対して、もっとやることはなかったのかな、と思う一方で、僕にも問題があったのではないか、ということも考えるのだ。

それは僕が、彼の発表の態度があまり好きではなかった、ということに起因している。

彼の発表は、客観的にみてもひどいものだったと言える。それは何故かと言うと、内容が薄いとかそういうことではなくてに、ちゃんと準備をしていないということが、あからさまであったからである。

ゼミであれば、研究室のメンバーがみんな集まる。そうなると、時間自体は2時間でも、みんなの2時間を拘束することになるのだから、それに対しては、最低限の礼儀があって欲しいと、僕は思うし僕自身が発表するときもそれを意識して準備をしている。それが彼には、欠けているようにしか思えなかったのだ。要するに、こちら側が軽く見られている、ように感じたのだ。

だから、彼に対する態度は、どこかよそよそしいものにならざるを得なかった。

他のメンバーはわからないけれど、僕に限って言えば、悪いように言えば「仲間はずれ」にしようとするような気持ちが、起こることもしばしばあった。

しかし、そこでやるべきことは、僕の思っていることを率直に言うということだったように思える。おそらくその場は気まずいだろうし、彼も悲しいかもしれない。しかしその後のもっと大きな悲しみに比べれば、そんなものは履いて捨てるような、小さな心の動きだったのかもしれない。

 

結局は僕もそうやって大事なことから逃げているという事実ではまったく変わり無いのであって、彼が陥ってしまったことと、僕は本当に間一髪違っているというか、実相はほとんど一緒なんじゃないか。もっとやれたことがあるんじゃないか。

そして本当のことを言えば、僕だって本当に大事なことから逃げていることが、たくさんあって、他人事のようにこうやって文章にしていて良いのだろうかと思うのだ。僕も彼も、たぶん何も変わらないのだ。違いは僕が勝手に思っている差異よりも、もっともっと小さくて、勝手に線引して「あーあ大変なことになってるな」と対岸の火事として処理してしまっている僕が、とても嫌になる。

それはそうやって線引をしないと、僕自身がどうにかなってしまいそうだから。僕の精神の段階が、彼という気質が僕の中にもあることを本当に認めてそしてその上で行動する、判断するという段階まで、至っていないのだ。そうしてとても、やるせなくなるのである。

仕事と生きること

内定先をかえようと思い、都合をつけてもらって、新しく行きたいと思っている会社の代表数名の方と会ってお話兼飲み会に参加した。

 

はじめはとても緊張して、上手く喋れなかった。僕を紹介してくれた人もなんとなく緊張していて、それが伝わったのかもしれない。結果的には、向こうの方がとても気さくで、楽しく会話をすることができた。

仕事の話や、人生観の話、今後どういうことをやりたいか、など。人生の根幹に関わるようなことを、お酒が入っていたとは言え、本気(のように僕には思えた)で話をしてくれる人というのは、まあそうそういない。そして居たとしてもそれが心に刺さる、記憶に残るようなものであったことは、今までで数回しか無い。

簡潔に言ってしまえば、本気で話ができて僕は楽しかったのだ。主義思想が似ているというのも会ったけれど、それをしっかりと自分で考えていることがとても印象的だった。

僕が思っている以上に、生きることということと、仕事をするということは、重なるところがとても大きいのかも知れない。

 

今後どうなるかはわからないけれど、今は僕はあの会社で仕事をしてみたいと、本当に思っている。

右足のことを考える日

最近ちょっと太ったように思う。ズボンを履いても少しふくらはぎのところが張っているように感じることが多い。体重で言うとそれほど変わっていないので、筋肉がなくなって脂肪に置換されているのだろう。

理由は簡単で最近食べ過ぎなのである。そして飲み過ぎ。

飲んでいると、いらないものまで延々と食べる悪い癖が、最近助長されている。食べたって別にその場で少し楽しいだけなのに、なぜ食べようとするのか。冷静になった今考えればまったくもって意味がわからない行為だけれど、そのときはやりたいからやっているのであって、人間とはよくわからないと常々思う。

理性が飛ぶとうのはあのことを言うのだろうと思っている。普通にしているときはなんとも思っていないこと、やろうと思っていることが、全くできなくなる。あるいは抑えていることを、抑えることができなくなる。

食事や飲むという方向にこれが発揮されてしまうと、僕のようにただ太っていくだけであるが、こと言論に関して言えば、この「理性が飛ぶ」という現象は心地が良いときがある。僕は常に何かごとを考えていることがとても好きなので、そうやって「理性が飛ぶ」と自由に発言ができた気分に一瞬なるのである。これが心地よいというか、思いもよらない発想となることがしばしばある。しかしこの自由な発言というのも結局はお酒によってもたらされたものでしかなくそういう意味では下劣極まる理屈に酔って発生したゴミのようなものであるし、そもそも考えることが好きなのであればちゃんと考え抜く勇気をもって考えるべきであって「理性を飛ばす」なんていうのはそこから逃げている、というのも真っ当である。

しかし、これは楽しいのだからなかなかやめられない。飲みすぎた翌日に頭が薄ぼんやりとしてシャキッとしない時には、もう飲まないなんて思っているんだけれど。

 

今日もその飲みすぎた翌日であって、朝からシャキッとしたいがためにランニングをした。そして右足のアキレス腱を再び故障した。

右足は、先週のいつかの飲み会で、泥酔に泥酔を重ねて、四条の飲み屋から下鴨の下宿までをだらだらと歩いているときに痛めていた。その時は茶色のチャッカブーツを履いていて、酔っ払ったせいでちゃんと歩けなくなり、ブーツがかかとの上部分を圧迫したためになったのであろう。

しかしこの痛みが微妙なのである。歩こうとするときは特に痛くない。しかし走ろうとすると痛い。だが走っているとちょっとすると痛みが引いていって、少し違和感がありながらも走れる。そんな様子が何日か続いて、少々の痛みなんてこと無いと言い聞かせながら毎日ランニングをしていたのだが、どうも痛みが強くなるように感じられて、ここ2日ほどはランニングをしていなかった。

痛みも引いて、もう走れるだろうとよんで、今日走ったのだが、終わった今の痛みが今までで一番強い。とても痛い。座っていても、アキレス腱の部分が張っているのが感じられる。

医者に行ってもおそらく「安静に」と言われるのはわかっていて、「なぜ走ったんですか、阿呆なのですか」と言われるのもわかっている。しかし、実際にやってみるまで信用ならない阿呆なので、誰にどう言われようとおそらく僕は走って、そして足を痛めるのだ。今日みたいに。

 

右足を自由に使えないというのは、ちょっとばかり不便である。部屋を移動するのにも足は使うし、寝ていたってちょっと角度に気をつけないと痛みが伴う。

なので今日はずっと右足のことを考えていた。

意外とこういうことがないと、自分に右足も左足もついていることを意識することはない。それはそこに当たり前にあるからだ。そしてそれがない人もいる。

移動する時、立っている時、座る時、いつだって右足は使う。でもそれは右足をこう動かして、という意識としては現れない。僕は「移動したい」「あるきたい」と思っている。右足がこうなって欲しい、という願いは、服屋の鏡の前でちょっとX脚になった右足をみて「まっすぐにならねえかな」と思うような時ぐらいである。

今日の僕のように、右足を痛めて初めて、こういうときに右足を使うんだ、ということが否が応でもわかる。機能として失われて初めて、右足があることの意義がわかる。しかしそれは強制的に「わからせられている」のであって、あまり賢いとは言えないように思う。自分の経験を大事にすることはいいことであるけれど、人間には想像力がある。豊かに想像すれば、右足が上手く使えなくなる世界を、右足がちゃんと動く人でも、考えることができるだろう。それは実際に右足が無い、使えない人からすれば「違う」のかもしれないけれど「ちゃんちゃらおかしいぜ」とはならないように思う。

 

こんなことを思っていると、この右足というのは別に右足そのものを指さず、もっと一般的なものとして認識することもできるのではないか、という気分になってきた。

それは例えばお金があるとか、どこの国で生まれたとか、性別とか、職業とか。

そうなったらどうなるだろうか、ということを考えて、僕だけではなくてみんながちょっとでも良くなったらいいなということを考えたい。そう思っていた。

でも右足は痛いままだ。走った僕が悪い。けれど考えれたのでまあよしとする。