The sun rises again.

フィクション

泥酔そして泥酔

夕方からの論文紹介に参加して、特にやることもないのでそのまま研究室を後にし、生協の本屋へ。目当ては森見登美彦の新刊だったのだけれど、なぜか置いておらずなんとなくいつもは読まない男性向けのファシッション雑誌を手に取った。

そこにはおしゃれでかつ身長が高くてかっこいいモデルがたくさん乗っていて、購買意欲を煽るようなキャッチーなコピーが添えられている。これを見てこれをほしいと思う人がいる一方僕のようにその世界とこちら側との断裂を感じて悲しくなる人もいるのが面白いなと思っていた。
断裂とは、どうあがいてもそちらには行けそうにないという思いである。僕がいくら頑張っても身長は変わらないし顔も変わらない。スタイルぐらいかかろうじて。そう思うと、その人達から見れば僕は身体障害者であるようなもので、なのにも関わらず特にこれに関して救済はない。美しさは残酷。

そのあと一人でだらだらと家に歩いて帰っていた。つまらないので酒でも飲もうと酒屋へ行き、酒を買ったときに飲みに行きませんかという連絡が。喜々として行く旨を伝え急遽花金の飲み会になった。

結論から言うと、これはとてもひどい飲み会だった。僕はひどく酔っ払って、わけのわからないことを喚き散らし、どうやって帰ったかわからないが家についたときにはもっていた本はなくなっており、手にはローソンで買ったおにぎりと栄養ドリンクとお茶があった。

とても気持ちが高ぶっていた僕は、その後SNSになにやらつぶやいていた。というのもそこからの記憶が曖昧であるからである。内容を記すにはあまりにつらい。なぜかってとてもひどい文章だったからだ。ありていに言ってしまえば、要するに死にたいということらしい。

今思うととてもひどい。醜態とはこれを指す言葉である。一言言うなら「甘えるなよ俺」。結局僕は色々な嫌なことから逃げたいだけなのだ。それに対して、いろいろと言い訳をしている、ただそれだけ。理屈っぽいときは人は感情的である、というのは誰かの言葉だった気がするがよく覚えていない。理屈っぽく加工してけむにまこうと必死であった。誰をか、僕をである。僕が僕のことをよくわかろうとしていないこと、これが根本的な原因でありかつ諸悪の根源だ。

暇をもてあますということ

一日一日が、無駄ではなかった、なにか意味があった、そういうことを確認したくてこうやって毎日日記を書いている。別に無駄な日があってもいいんじゃないかという意見もあるけれど、僕は毎日が無駄であってはほしくないと、どこかで思っているのだろう。逆に言えば、無駄な毎日が続くのであったらもうそれは生きることをやめてもいいのではないかという気持ちになってくる。

だからといって僕の毎日がそう充実したものであるわけではない。むしろどうでもいい日々しかない。大抵は起きて仕事もしくは勉強して酒を飲んで寝ているだけだ。あとすこしのランニング。

もともとは暇はあればあるだけ良いタイプだったように思う。たまにいる「忙しくしていないと生きていられない」タイプの人をどちらかというと下に見ていた。休みの日は家でゴロゴロするのが一番いいじゃないか別に予定なんてなくても。そう思っていた。

いつからだか、それが息苦しくなった。一人で時間を潰せなくなった。本を読んでも落ち着かない。ゲームをしていても虚しさしかない。たまに勉強していると時間を忘れるときはあるけれど、あの瞬間はねらって作れるものではなく勝手にそういう状態に「落ち込んでしまう」のであって、暇つぶしというか時間を潰すために発生させることはなかなかに難しい。そうして僕は自分が忌避していたフリーの時間を有意義に使えない人間になってしまった。どこかへ出かけたり、買い物をしたり、そういった「目的」を作らないと安心して過ごせない。これは人間としてとても悲しいことであるように僕には思える。自分がやりたいことをやっていいんだよ、というときにあくせくと目的を作成している、この感覚がとても気持ちが悪い。

別に買い物に行くとか出かけること自体を否定はしていない。自分がそれをやりたい、ということが先に来ているのであれば別にそれは問題ないのであって、僕が言いたいのは結果が先に来ている、目的を作ることが先に来ている場合を指している。買い物に行きたいから行くのではなく、自由時間を消費できないから買い物に行くという目的を作ってしまえ、という場合である。

そう思うと結局僕が抱えている問題の根源は「僕とは何なのだろうか」というところに落ち着いていく。僕は何がしたいのか僕はだれを愛しているのか、僕は何をどう認識しているのか。僕とは何なのか。

こういうことを考えているのも別に僕一人に限ったことではないし色々な人が似たようなことを考えていて、そしてそれをすごく思い詰めてそしてみんなに知ってもらいたいと思った人が、歴史に名を残すような哲学者になっていることを思うと、僕もまた凡人間なのだと気付かされ、そしてまた僕は僕であるということに自信と誇りを失うのである。

失うということ

左足を痛めた。

多分この間の月曜日に、革靴を履いていろいろと歩き回ったからに違いない。
ほんとうはあの日に革靴を履いていくべきではなかった。だいたい革靴で歩き回ったら足に悪いのなんかわかりきっている。でもその革靴はこの間ようやく買った茶色のプレーントゥのかっこいい奴なのだ。

新しい革靴、そしてこれもこの間買った新しいジャケット。ちょっとおしゃれをしたかった。その代償が左足の痛みである。かっこいいことには犠牲はつきものだ。藤原紀香だかだれかが「おしゃれは寒いときに暑い格好をして、暑いときに寒い格好をすることだ」と言ったとか言わなかったとか。要するにおしゃれというものは、自然な状態に反して何か格好をつける、というところに発端がある、という発想である。これと反対の概念として機能美というものもあり、これはこれで素晴らしいものだ。坂口安吾が大好きな僕としては、機能美を愛する必要があるのかもしれないが、たまにはそれを制限するところに美しさを感じたっていいじゃないか、などと言い訳をしている。

とにかく僕はそうやって、制限された美しさを表現した結果として、左足を痛めた。アキレス腱と太ももとのちょうと間あたり。一歩歩くごとにじんわりと痛む、がしかし別に歩けないほどではない。

痛めると初めて今までの健康な自分の左足が急に羨ましいというか、愛おしくなる。普通にしていたときにはなんにも気を使わないのに。しかし失ってしまった今はランニングがしにくい(できなくはない、無理矢理に)、自転車が漕ぎにくい、靴下が履きにくい、あぐらがかきにくい。そう人間は失わないと、そこにあった機能を喜んだり貴んだりすることができない。こともある。全部がそうだとは言わないけれど。

愛するものも、愛するものを失って初めて気づくのかもしれない。というのはどこかの映画でみたような気がするが、どの映画なのかは覚えていない。しかし失って初めて気づくからといって失いたいかというとそれは違う。だってないよりはあったほうがいい。それが普通の考えであるように思う。

しかしふと同時に、「気づけてないものを所有していてもそれは当人にとっては自覚がないのだから所有するしないは関係がないのではないか」と思う。要するに気づいてないような鈍感なやつは失ってそれがあった喜びを知った瞬間に初めて救われるのではないか、ということだ。救われるというか、価値に気づいて賢くなれる。より真実を知ることができる。

多分僕にもこういう「知らない真実」がたくさんあるのだろう。しかし僕にはそれがなんなのかわからない。それは定義からして僕が知ることができないからである。

偉大なる破壊を僕は欲している。

美容室

髪を切った。前回切ったのはちょうど3週間前で、そんな頻繁に切りに行くの?となるわけだけれどそれは前回の終わりに美容室のお兄さんに「3週間以内なら今回と同じ内容であれば1000円でできますよ」と言われしかもその場で次回の予約をさせられたからなのであり、特段髪を切りたかったわけではない。

しかし次回の予約をその場で、というシステムはだれが考えたのだろうか。上手なしくみだ。特に僕のような電話するのは死んでも嫌、なタイプは後で電話して予約を断るなんてことはできないし、そして結果的に僕はリピーターとなる。

 

まあこういうシステムは考えた人は偉いなと思う一方で、優れたシステムに乗っかっている自分、というのを考えてしまう。そしてそのシステムへなのかそのシステムを考えた人になのかわからないが、「お前の言うとおりになってたまるか」という気持ちがとても強くなるのが、僕という偏屈人間の思考である。

今猛烈に次回の予約を断ろうかどうかを考えているところである。電話をかけても。

しかし断ってしまうと、前回今回と担当してもらった若作り感のある幼い高校生みたいな美容師さんの歩合が下がってしまうと思うと、なんとも電話を持つ手が重くなるのも事実であって、そして不思議なのは別にそのお兄さんに対して僕は別に好きだとかどうだとか思っていないというところ。

どうでもいい。それが適切な表現である。

なんというか、無駄な殺生はしたくない、という動物愛護的精神なのかもしれない。そういう意味で僕は彼のことを特に人間だと思っていないのかもしれない。お話のできる、動物。若作りのできる動物。お話ができると行っても美容室にいるような人とはお話は合わない。というとちょっと差別的ではあるが事実僕の中高大の友達で美容室に今勤めている人間は一人もいないから許してほしい。そもそも興味のベクトルが違うのだ。モテたいから美容師になり、30手前で派手にパーマをしてしかも長髪である。僕にはできない、しろと言われてもことわる。それを自分から嬉々としてやっているわけであって、その世界は僕には理解できない。そして向こうもこちら側の気持ちを理解はできないだろう、そもそも理解する必要すらないのかもしれない。

 

そうこう思っているうちにカットが終わり、カラーも終わった。

 

若作りは言う。「さわやかボーイですね」。

 

何だそれは、客を煽っているのか貴方は。

夕日

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すっかり夜があけるまでの時間が早くなって、気づいたらもう秋が来ていて、もっというともう冬が来ようとしている。

ちょっと前まで暑くて辟易していたのに。不思議な感覚になる。時間というものを感じる。

たいして変わらないように見える毎日だけれど、だんだんと変わっていっているんだなと思う。当たり前のことだけど。

休日

久々に先輩たちと飲み会だった。

一人はたまにと言うか最近一緒に仕事をしたりしていて、それなりに顔を合わせることもあるから、あまり久々という感じはなかった。もう一人は今は和歌山で教員をやっていて、時々流れるSNSの情報を見ていると、なんだか疲れているんだろうなというのがいつも感じられていて、正直大丈夫なのかなと思っていた。

いつも僕は待ち合わせに遅れる。遅れるというか、OnTimeで行くので、大抵の場合ちょっと遅れるのである。でも昨日は集合時間15分前につくように見計らって、バスに乗った。バスが遅れるであろうことを考慮して、20分前につくバスに乗った。

待ち合わせにゆったりと向かうのはいつぶりだろう。と思いながらバスに揺られ、河原町高島屋の前についた。少しすると、先輩がやってきた。

その背格好はどこか痩せたように見えた。僕より身長が10センチ弱ぐらい高いはずなのだけれど、その日はあまり変わらないように思えた。

ランチをして、お茶を飲み、買い物をして、飲み会。いつもの流れ。でも僕たちはもう去年の僕達ではない。先輩は働いていて、仕事上の悩みを抱えている。それは休日にあったときに、心のそこから休日ができないほどに。

多分だけれど、遊んでいても仕事のことをどこかで考えているんだと思う。僕の知っている先輩より少し無口で、しんどそうだった。そういうことを考えながら飲むお酒は、いつもより染みてそして美味しくないように感じられた。

最近思ったこと

最近運動を良くするようになった。それはほとんど毎日のランニングだ。朝でも夜でも、気が向いたときにふらっと走りにでて、だいたい10キロぐらいを一時間ほどかけて走る。

大抵はお気に入りのプレイリストを聞きながら。たまにGooglePlayでおすすめされた、知らない曲を聞きながら。

走っている途中は、じっとしているときと違って走ることに集中しなくてはならない。だからとても心地よい。とはいっても何も考えていないわけではない。走る前にやっている作業のことだったり、はたまたちょっとむずかし目な哲学だったり。といっても走っているわけで、そこまで深くは考えられないのだが。またその浅く制限されている中での思考もとても楽しかったりする。ふと思いつくことに関してちょっと考えて、また別のことを考えての繰り返しだ。そうやってどんどんいろんなことについて浅く広く。今時分が何を考えているのかということを、ハイライトでなぞっていくような感覚。それがとても良い。

帰ってくると、僕は家に一人だ。一人で風呂に入って、シャワーを浴びて出て、そして大抵はパソコンの前に座る。その後は、研究のためのプログラムを書いてみたり、適当にネットでニュースを見たり、ツイッターを見たり。そうやって一日は流れていく。

腹が減ったら、適当に飯を作る。最近はまっているのは、トマト缶で煮込んでそれを適当にスパイスを入れて味付けをする、なんちゃって真面目カレーだ。レシピ通りには作らない(一回作ったけれど全然美味しくなかったのでもう作る気力がわかない)ので、味は安定しないし、そもそもカレーと呼べる代物かどうかは微妙だ。トマト臭いし、ターメリックを入れて黄色くなっただけという気がしなくもない。でもそうやって作ったカレー風の煮物を食べながら、お酒を飲んでいるときは、結構楽しい。

お酒はなんでも良い。酔えればよいのだ。酔って色々とどうでも良くなって、眠くなってそして眠れればそれでいいのだ。それがお酒ってもんだ。

そういうときに、ふと思う。僕はこれを繰り返し繰り返して、そして年を取っていくのだなと。こんな風に、何の生産性もない生活を繰り返していくのだと。

とはいえ来年から僕は働くことになっている。だからぱっとみ外から見れば、多分普通に働いていくのだろうと、そう思う。でも僕の中ではそれは全く意味のないことというか、別に働くことはそこに仕事があって、それをするとお金がもらえて、そして世間体がいい。これが一番だけれど、そうやるのが当たり前だからやることの一つであって、トイレをしたら流すというのと、大して変わりはない。ただの取り決めのようなものだ。

それは僕が就職した会社、それに就職した職種が、ちょっとばかり専門職であるからゆえに許されていることなのかもしれない。今僕はそういうふうに書いたけれど、よく考えれば塾のアルバイトのときも特になんとも思っていなかったし、別に飲食店で働こうがオフィスで働こうが営業に回されようが研究職をやろうが、実は僕の心の中では大差がないのかもしれない。休みが取れないとか上司が圧力をかけてくるとか周りの雰囲気が最低だとか、そういうことがない限り。むしろ仕事を何をするかというよりも、そういう環境の面のほうがよっぽど大きく聞いてくるような気もする。やはり人間は環境次第で生きたり死んだりする生き物だからだ。それは電通の女の子が死んだ話でもそうだし、ワタミの話でもそうだ。環境は人を規定してしまう。環境になれるのが早いのも人間の特性の一つかもしれないけれど、環境に抗うことにとても大きなエネルギーを必要とするのも人間だ。

僕は今とてもものすごく環境に甘えて生きているという自覚がある。今の家に生まれたこと、中学高校に行けたこと、大学へ行けたこと、大学院へ行けたこと、その間特に大きな失敗も、家族に関する大きな(些細なことはあったけれど)事件事故がなかったこと。あまりにもできすぎている用に感じる。そしてそのできすぎた環境に対して、甘い汁を吸えるだけ吸っているような、そういう背徳感がある。本当にこれでいいのだろうかと、自分に問いたくなることがある。しかし僕は問わない。問わないのは、問うた自分が辛いからだ。

もっとできるんじゃないか、もっとできたんじゃないか、本当はそうやって思っている自分が何処かにいる。

先日高校の友だちがアメリカへと留学することが決まった。仮に彼をAをする。Aは高校の時お世辞にも勉強ができるタイプではなかった。少なくとも僕は僕よりもできない奴だと、どこかで見下していたふしがある。だからといって別に軽蔑しているわけでも何でもなかったけど、そうやって心の何処かで彼を下に見ていた。
その後Aは浪人をした後、ある国立大学に入った。人間の足に関する研究をしたいと言っていた。彼は陸上部でとても足が早かったから、人間が早く走るにはどうすればいいのか、ということに興味があったのかもしれない。しかし僕は無理だろうと思っていた。なぜなら僕でも無理だった研究者になんか、やつがなれっこないと思っていたから。
しかしAはそれを叶えて、アメリカへと留学した。

負けた。僕は負けたのだ。下に見ていた彼に。
糞糞糞。負けた。僕は負けた。

勝ち負けではないことぐらい、よくわかっている。理屈ではわかっている。でも、だめなのだ。僕はそうやって自分の中で下に見ることで、くだらない心の安寧を得ていたのだ。まずその点に腹が立つ。そしてそうやって自分に都合の良いことばかりを見続けた結果、相手に追い抜かれたとき「負けた」と思っているその心にも腹が立つのだ。
お前には、負けたという資格すらない。
結局は、自分がいる環境に甘えているというところに行き着く。正確に言えば、自分が何もしなくても、自分を良いと言ってくれる環境へと落ち込んでその中でのうのうと生活している、そのことに腹が立つ。