The sun rises again.

フィクション

暇をもてあますということ

一日一日が、無駄ではなかった、なにか意味があった、そういうことを確認したくてこうやって毎日日記を書いている。別に無駄な日があってもいいんじゃないかという意見もあるけれど、僕は毎日が無駄であってはほしくないと、どこかで思っているのだろう。逆に言えば、無駄な毎日が続くのであったらもうそれは生きることをやめてもいいのではないかという気持ちになってくる。

だからといって僕の毎日がそう充実したものであるわけではない。むしろどうでもいい日々しかない。大抵は起きて仕事もしくは勉強して酒を飲んで寝ているだけだ。あとすこしのランニング。

もともとは暇はあればあるだけ良いタイプだったように思う。たまにいる「忙しくしていないと生きていられない」タイプの人をどちらかというと下に見ていた。休みの日は家でゴロゴロするのが一番いいじゃないか別に予定なんてなくても。そう思っていた。

いつからだか、それが息苦しくなった。一人で時間を潰せなくなった。本を読んでも落ち着かない。ゲームをしていても虚しさしかない。たまに勉強していると時間を忘れるときはあるけれど、あの瞬間はねらって作れるものではなく勝手にそういう状態に「落ち込んでしまう」のであって、暇つぶしというか時間を潰すために発生させることはなかなかに難しい。そうして僕は自分が忌避していたフリーの時間を有意義に使えない人間になってしまった。どこかへ出かけたり、買い物をしたり、そういった「目的」を作らないと安心して過ごせない。これは人間としてとても悲しいことであるように僕には思える。自分がやりたいことをやっていいんだよ、というときにあくせくと目的を作成している、この感覚がとても気持ちが悪い。

別に買い物に行くとか出かけること自体を否定はしていない。自分がそれをやりたい、ということが先に来ているのであれば別にそれは問題ないのであって、僕が言いたいのは結果が先に来ている、目的を作ることが先に来ている場合を指している。買い物に行きたいから行くのではなく、自由時間を消費できないから買い物に行くという目的を作ってしまえ、という場合である。

そう思うと結局僕が抱えている問題の根源は「僕とは何なのだろうか」というところに落ち着いていく。僕は何がしたいのか僕はだれを愛しているのか、僕は何をどう認識しているのか。僕とは何なのか。

こういうことを考えているのも別に僕一人に限ったことではないし色々な人が似たようなことを考えていて、そしてそれをすごく思い詰めてそしてみんなに知ってもらいたいと思った人が、歴史に名を残すような哲学者になっていることを思うと、僕もまた凡人間なのだと気付かされ、そしてまた僕は僕であるということに自信と誇りを失うのである。