The sun rises again.

フィクション

失うということ

左足を痛めた。

多分この間の月曜日に、革靴を履いていろいろと歩き回ったからに違いない。
ほんとうはあの日に革靴を履いていくべきではなかった。だいたい革靴で歩き回ったら足に悪いのなんかわかりきっている。でもその革靴はこの間ようやく買った茶色のプレーントゥのかっこいい奴なのだ。

新しい革靴、そしてこれもこの間買った新しいジャケット。ちょっとおしゃれをしたかった。その代償が左足の痛みである。かっこいいことには犠牲はつきものだ。藤原紀香だかだれかが「おしゃれは寒いときに暑い格好をして、暑いときに寒い格好をすることだ」と言ったとか言わなかったとか。要するにおしゃれというものは、自然な状態に反して何か格好をつける、というところに発端がある、という発想である。これと反対の概念として機能美というものもあり、これはこれで素晴らしいものだ。坂口安吾が大好きな僕としては、機能美を愛する必要があるのかもしれないが、たまにはそれを制限するところに美しさを感じたっていいじゃないか、などと言い訳をしている。

とにかく僕はそうやって、制限された美しさを表現した結果として、左足を痛めた。アキレス腱と太ももとのちょうと間あたり。一歩歩くごとにじんわりと痛む、がしかし別に歩けないほどではない。

痛めると初めて今までの健康な自分の左足が急に羨ましいというか、愛おしくなる。普通にしていたときにはなんにも気を使わないのに。しかし失ってしまった今はランニングがしにくい(できなくはない、無理矢理に)、自転車が漕ぎにくい、靴下が履きにくい、あぐらがかきにくい。そう人間は失わないと、そこにあった機能を喜んだり貴んだりすることができない。こともある。全部がそうだとは言わないけれど。

愛するものも、愛するものを失って初めて気づくのかもしれない。というのはどこかの映画でみたような気がするが、どの映画なのかは覚えていない。しかし失って初めて気づくからといって失いたいかというとそれは違う。だってないよりはあったほうがいい。それが普通の考えであるように思う。

しかしふと同時に、「気づけてないものを所有していてもそれは当人にとっては自覚がないのだから所有するしないは関係がないのではないか」と思う。要するに気づいてないような鈍感なやつは失ってそれがあった喜びを知った瞬間に初めて救われるのではないか、ということだ。救われるというか、価値に気づいて賢くなれる。より真実を知ることができる。

多分僕にもこういう「知らない真実」がたくさんあるのだろう。しかし僕にはそれがなんなのかわからない。それは定義からして僕が知ることができないからである。

偉大なる破壊を僕は欲している。