The sun rises again.

フィクション

会社

今日、朝7時頃に起きてああ今日も会社に行かなくてはだめだと思った瞬間に、とてつもなく会社に行きたくないしまったくもって頭は働かないしもうこれはだめだと思って、会社を休んだ。

「体調不良により本日はお休みさせていただきます」

僕が所属している会社はそれはそれは自由な環境で、基本的に朝は昼までなら何時に来てもいいし、8時間働いたら帰っていいし、休日出勤もない。素晴らしい環境である。しかしその一方で、正社員ではない被雇用者は実力がなければ無慈悲に解雇されるし、残業がないと言ってもやるべきことは降ってくるし、そしてそのやるべきことを自分で作成する必要もある。ぼーっとしていると自分がやる仕事がなくなるのだが、そうやってぼーっとしていると私がやった仕事がないことが判明し、そして私は用無しになってしまうすなわち解雇である。

はじめはこの環境は自由に仕事ができて素晴らしいと思っていたが、仕事の内容が僕が本来想定したこととずれて来ていることや、仕事の内容がとても泥臭くそして僕の頭をかき回すようなものなので(要するに僕がこの仕事が苦手なのだ)、次第に耐えきれなくなっていっているのを感じるのだ。

多分どの会社に行こうとも同じことは起こるのだろうけれど、今の僕には少々つらい。

土曜日

ここのところ数週間、土曜日を一日まるごと睡眠に費やしている。いつもの日よりもちょっと寝てしまったとかではなく、本当にまるごと一日寝ている。今週は、金曜日(というか土曜日)の夜1時ごろに寝て、起きたのは土曜日の21:34だった。ざっと21時間、ぼんやりと眠っている。

睡眠の質もそんなに良くなくて、殆どの時間は寝ているというよりも、ぼんやりと夢のような、考え事のようなことをしている。

普通の人の7分の1の時間を睡眠に費やしているのだから、休日に色々することができなくなり、結果自分がやりたい余暇の活動ができなくなっていっているのは当然のことである。しかしこの睡眠が終わったあとの頭の中の清涼感というか、思考の明瞭さは、平日朝起きたときとは比べ物にならない気持ちよさがあるので、やめられないのだ。

そして起きて珈琲を入れて、ホットケーキを焼く。

人間の条件

題はアーレントから戴いた。

しかし、アーレントの人間の条件は読んだことがない。ふと人間の条件という事が思い立ったからだ。

今日は日曜日だから、どこかに出かけようという話をしていた。しかし僕がうだうだと寝ていたせいで、出かけたのは15:00を過ぎてからだった。とりあえず必要な用事だけを済ませて、本を買った。最近は数学と哲学の本以外の本を買っていなかったし、読んでもいなかったことを思い出して、気になる本を適当に買った。

 太宰と石川淳はいつも通りという感じで、ちょっと気になって買ってみたのはソ連の本と宮台真司の本。やっぱり社会というものがどういう風に成り立っていて、どの制度のときにどのような事象が発生したのか、という観察と考察の記録を欲しているのだろうと思う。最近はこちらの方向に頭をつかう機会があまりなかったから、ちょっとづつでも勉強したいなと思う。

本を買ったあと彼女と二人でご飯を食べた。

普通にご飯を食べて、お酒を飲んで楽しくしていたはずだったのだけれど、いつの間にか僕がその場にいることがとても苦しくなってしまった。それは彼女が不快な発言をしたわけでもなく、場の空気が悪かったからでもなく、純粋に僕が公共の場所にこれ以上居ることがどうしてもできなくなってしまったのである。なんとなく食事をしていることに対する自分の主体性の無さと、時間を浪費しているのではないかという虚無感と、このように思って彼女に迷惑をかけることへの申し訳無さとが相まって、僕にはもうどうしようもなくなっていた。

彼女には申し訳なかったけど、早くに食事を切り上げて僕だけ先に家に帰った。電車に乗っても良かったけれど、なんで僕はこんな行動をしているのかわからなくて、頭を一回冷やしておきたかったから、歩いて帰った。

普通の人が普通にすることができないのは、なんでなのだろう。

電気羊は夢を見るか、にあった人間の条件は相手の気持ちを感じることができるかどうかだったような気がする。僕の場合相手がどう思っているかは、多少は感じ取れる(と思っている)からその点では人間なのだろうけれど、それを行動に移す際にどうしても我慢できないことが発生してしまって、もうどうしようもなくなってしまうことがあるのは、人間の条件に反しているように思える。

 

親密な関係にならない程度で接する、例えば職場の人と仲良くする、というぐらいであったら、我慢して友好的な関係を気づくことはできるし、それは特に苦になったりはしない。でもそれを超えて、極限まで近くに来る人に対して、僕は接し方がわからないのだろう。

ちょっと離れている人だったら、その人がいないすきに色々と発散することができる。そしてその発散のやり方もタイミングも、僕は人生の中で学んでいる。でも一方で、彼女になる、特に結婚をするかどうか、なんてことまで真面目に考えている相手に対して、そうやって表層上の付き合いでは行けないと僕が思っているせいで、気づかないうちにストレスがだんだんと溜まっていて、一定を超えてしまうともうどうしようもなくなる、のかもしれない。そうだとすると僕はありえないぐらい自己中心的であって、僕が相手であったら確実に怒るし怒るですまないかもしれない。

そして「だってそれって、相手に対してとても失礼じゃないですか?」と問うだろう。

そうなのです。とても失礼なんですよねーアハハハ。でもね、そうしかできなかったのですよ。

と泣きながら答えるしかない。

でも泣いたって事は良くならないし、彼女が今日傷ついた事実は変わらない。とりあえず僕に出来ることは、次から同じような事が起こらないように努力するということと、キルフェボンのケーキを買って彼女に謝りに行くということだけだ。

5月

4月が終わった。新社会人となって初めての4月が終わったことになるが、思い返すとたくさんの新しい経験と危機感とを感じ続けた一ヶ月だったように思う。

会社のこと

会社がどういう商売をしていて、どう成り立っているのかは、正直入社するまでちゃんと把握できていなかった。しかし、オフィスが5人も入ればいっぱいいっぱいなただの賃貸住宅で、従業員が片手に満たず社長にとても近しいところにいると、嫌がおうでも色んな話が耳に入ってくる。そうやって、段々と会社の輪郭を掴んでいった一ヶ月であった。

悪い会社ではないと思うけれど、突飛な会社でもないし、まあ言ってしまえば普通の中小企業であった。やっている仕事がちょっと新しいことであるというのはあれど、会社がやらなくてはならないことは、どこも対してかわらないんだなという印象を受けた。

それは、結局のところ会社に利益を残しつつ、従業員に給与を払いつつ、自分たちの給与を捻出する、ということである。至極当たり前のことであるが、大きい会社にいると多分このあたりが曖昧になってしまうのだろうと思う。細分化されたセクションをやっていれば、そういった事務的なこと、運営のことには気を配らなくても良いからである。それってサラリーマンなのだから、考えなくてもいいでしょという発想もありだとは思うが、僕としてはそれは思考停止なような気がしているので、今のいわば厳し目の環境は、刺激がたっぷりで楽しいと思うときもあるし、ちょっとしんどいなと言うときもある。

仕事のこと

インターンで1ヶ月弱会社に入って仕事をしたことは会ったけれど、ほとんどアルバイトに毛が生えたようなことしかしていなかった。ゆえに先月からの仕事は初めて仕事っぽい仕事であるといえる。

わかったことはたくさんあるけれど、一番大きい発見は「自分は何も知らない」ということだった。言い換えれば、無知であり無能である、という私を発見した。学生時代はたくさん勉強をしたつもりだし、たくさん本も読んだと自負していたところがあって、それなりに戦えるのではと思っていた。いざ仕事が始まってみると、周りで話している内容が全く意味がわからないことが多くあり、唖然とした。それはマーケティングの用語であったり、インフラ周りのIT用語であったり、コンサル会社が言ってそうな要件定義周りの用語であったりと、多岐にわたる。彼らは、当たり前のようにそういう用語を用いて話をしていて、もはや私と別の言語を喋っているかのようであった。「そのうち分かるようになるから安心して」とは言われるものの、やはり知らないことが目の前に転がっている状況は、なかなか精神衛生上よろしくないところがある。私はかなり動揺した。

と同時に、新しい勉強すべき領域を定義してくれて、ありがたかったという面もある。ここ一ヶ月、機械学習周りの勉強はそこそこであったけれど、一方でデータベースだったり、マーケティングだったりの概念は、かなり勉強できたのではないかと思う。いろんなことを学んで広い領域の人と話をしていくことが、僕のやりたいことの一つでもある。

平日の休日

今日は平日であるが、休日である。休日となったのは、私が日曜日に仕事をしたからであって、休みの取れるうちに休みはとれという上司の意見からでもあった。

平日にやすむとなると、なんとなくうれしい一方で、周りは働いているのに自分だけ休むのもなぁとちょっと気が引ける気分にもなる。とはいえ休みはもらったのだから休むのであるけれど。

家でだらだらしていても良かったのだけれど、普通の休日ではできないことを、ということでちょっと美術館に行ってみた。家から歩いて大体30分ぐらいのところにあって、前に行ったときに常設展にあった一枚の絵がとても気に入っていて、もうもう一回見たいと思っていた。休日は人がいっぱいであろうから、平日に行きたいと長らく思っていた。

現地につくと、特別展の案内とともに、常設展はお休みである旨がかかれていた。完全にやられてしまった。そのまま帰っても良かったのだけれど、なんだか癪なので、2000円近く払って特別展を見た。西洋絵画の展示であった。私は西洋画にはあまり明るくないし、あまりいいとも思えないので、さらさらっと見て1時間も経たないうちに見終わってしまった。一番いいと思ったのは、フィーチャーされていた画家の絵をモチーフにピカソが描いた絵であった。ピカソは偉大である。

社会人

入社してから一週間がたった。長いようで短いようで、でも一つだけ言えるとすれば、今のところ仕事はとても楽しい。

それは、与えられた仕事をただこなしていく、というスタイルではなく、自分で仕事を選ぶそしてこなしていっているからだと思われる。大きなタスクはあるけれど、一挙手一投足まで細かく言われることはなく、納期とタスクのバランスを見ながら今何をすれば良いのかを考えて行動することが試されている。それって頭を使うし、とても楽しいのである。

というわけで、社会人一年目、どうぞ世の中の皆様、よろしくお願い致します。

生きる目的

f:id:knockoutcoffee:20170403043400j:plain

昨日は久しぶりに高校の同期と飲み会であった。グランフロント大阪の地下にある世界のビール博物館で、麦酒の飲み放題コースが5000円からあると聞いて、一杯やろうという話になったのである。普通に頼むと一杯1000円近くする麦酒が飲み放題となるのだから、これは飲む人間にとってもとても都合がいい。皆ですべての麦酒を飲み干そうと躍起になり、そしてことごとく私は泥酔したのであった。

彼らとの付き合いもかれこれ長い。中高一貫であることに加えて、小学校の時から面識があるので、下手をすると20年来の付き合いになるのかもしれない。

これほど長い付き合いになると、どうしても加減と言うか、普通の友達に対しては言えないこともわんさか言うようになる。こう思っているのはこちら側だけかもしれないが、とりあえず私は彼らに対して言いたいことを言いたいときに言っているし、それで今後の付き合いが変わるとも思っていない。安心しきっているのである。結局彼らに対して甘えているのだろう。

無論そうやってこちらが適当に言っているがごとく、彼らも私に対して思っていることを率直に言ってくれる。

今回集まった中のひとりが、二股をしているという話になった。彼は、好きな人がいて付き合っているのにもかかわらず、成り行きで事をやってしまった挙句、告白されて断りきれず二股ということになっているようであった。泥酔した私は、これが相手にとって不誠実であると糾弾した。相手は君が自分を好きだと思って付き合っているのに、それに答えないのはどういうことか。君が相手を手玉に取っているのは、情報の非対称を利用した姑息な行為であり、断固許されるべきではない。このように言ったように思う。

しかし、泥酔の勢いに任せてこういったものの、自分が同じ立場になったとしたら、断れるのかは微妙な問題であるようにも思われる。第一私はモテないので、自分で選ぶような立場に居合わせることが無いのである。もし、自分がモテているとすれば、その立場を最大限に利用して、相手を手玉に取るような行為をするかもしれない。それは私の哲学、というと言い過ぎだが、私が生きる上で大事にしている考え方に、ひどく反するものであるけれど、実際にそういう立場に立たないとわからないことというのも、世の中には存在するのだと言うことぐらいは、わかっているつもりである。

その後とりとめない話をし、最後に彼は私に「君は生きる上で自分の利益を全然考えていない。君が思う理想が実現することや世の中が良くなればいいということばかりを考えているので、周りにいる人は大変であろう」ということを述べた。いわく、彼ともう一人は、結局のところ自己利益最大化を目的として生きている、とのことであった。これは私にとって意外に思われた。なぜならば、私は言われるまでもなく、自己利益などはなから考えてはいないし、皆も漠然とそう考えているのだろうと信じて疑わなかったからだ。

確かに、言われてみればそのとおりである。生きる上では、他人は競うべき相手であり、自分が大切にする者を守るためには、自己利益を追い求める必要がある。

その点で、私はちょっと変わっている。自己利益を追い求めることに対して価値を見出していない。それは今までの人生で、自分がなにかを他者から奪われることによって、悲しい思いをすることなく、のうのうと生きてきたことが原因であろう。奪われた経験が無いから、他の人を押しのけて自分が良くなろうということを考えない。しかしこの考え方では、厳しい世の中では生きていけないということぐらいは、私にだって想像がつく。しかし想像と、経験とを天秤にかけたとき、私はどうしても人間の良い面、言い換えると性善説にすがりたくなる。悪くなりたくて悪くなる人はいないのだ。そう信じている。

そして、世の中の人達は私のように考えていない、それは私の大事な、そして親しい友人たちにおいても同様であったことに、改めて気付かされた。それだから、私の考えがどうこうするわけではないけれど、しかし、同じ考えの人があまりいないというのは、些か悲しいものである。