The sun rises again.

フィクション

仕事のモチベーションについて

年末は地元に帰ってゆっくりしていた。特に生産的なことをするまでもなく。コーヒーを飲みながら適当に論文を読んだり、新しい本を読んだりしていたが、それは生活時間の僅かな時間であって殆どの間は酒を飲んでぼんやりと過ごしていた。ぼんやりとしていたので一週間ちょっとがすぐ終わった。美味しいものを食べてお酒を飲む、そのタイミングではある程度満たされているがしかしそれ以上でもそれ以下でもない。

大阪に帰ってきて仕事が始まった。会社に行っていつもどおりに業務をする。自分に振られたレビューを見てレビューしたり、わからないことがあったらそれを聞いて教えたり。そういえば新しい事業をやるなんてことの話を聞いたりしていたかもしれない。それらは会社にとってはとても大切なことであって、それをやる意味もわかるのだけれどどうにもやっていて楽しいと思えない。なんと言うか消化試合である。

消化試合に思えるのは僕がしっている範囲内でしかことが進まないからであるということに、最近気がついた。気がついたきっかけは宮台氏の本にあった「もうわかっている感」というワードに有るように思う。このワード自体は、宮台氏の分析を読んだ若者がそれに関する事象を自分が体験してもそれを既に知っているがゆえに「ああもう知ってるな」というふうなメタ的な認知にいたり、何も知識がない状態で体験するのとは待ったことなった認識なってしまうことを指している。それがもうわかっている感という言葉に繋がる。

それと僕の感覚は微妙に違うけれど、自分がわからないことに触れる機会が今の環境にはあまりにも少ないために、すべてが自分のコントロール下に置かれてしまっているように思えることが多い。そのために生活一般にハリが無い。全部わかっていること、自分の認知出来ることの範囲内でしかない。僕の生きているモチベーションになることは、自分がこれを知りたいやりたい、ということを必死にやることが多かった。それは大学にいる時に一人でプログラムに熱中したり、本を沢山読んでみたり、大学院にいる時には機械学習を頑張って身につけて使えるようにしたり、研究のための論文を読んだり。

それらは僕が知らない世界を自分のものにしたいという気持からだった。自分が知りたいなって思うことがあって、それをがむしゃらにやって一つづつものにする。そうやって少しづつでも知ることが増えていくことが楽しかったのだった。

翻って現状の環境はどうだろうか。

やっているのは受託のシステム開発であって、それは「特定の要件を満たすシステムを、いかに短期間である機能を実装しお客さんに提供するか」が目的であって、知らないことわからないことをやることが目的ではない。要求によっては新しいことを学ぶ必要が有る場合もあるだろうがそれは全体のうちの一部に過ぎない。要は今出来ることの切り売りになる。

こういう会社であっても新任で入ってきた人にとっては学びはあるだろう。それは会社で培っているノウハウだったりを吸収する必要があり、それによってその人のスキルが上がるからである。その間その人は学ぶことが会社にとってもその人個人にとっても目的が一致する。が然しそれを達成してしまった後はその人は何を目標に仕事をするのだろうか。仕事の効率化をすすめること自体に面白さを持つことが出来る人やものを作ること自体に面白さを感じる人ならば、その立場でも楽しいだろう。

一方で学び自体に面白さを感じている人は? まさにそれが僕なのだけれど、どうにもモチベーションになるものがない。要件定義とか頑張ってみる?とか思うけれどそれは別に面白い仕事ではなく仕事をするためにしようがなくやる必要があるフェーズであって極めることに面白さは正直感じないしやっていても楽しくはない。コーディングは?コーディング自体が楽しい時もあるが別にそれ自体に面白さを感じることはない。新しいアルゴリズムとかを論文等で読んでそれを実装する、というような何かしらの背後の目的が達成したいがゆえに、その方法としてコーディングするのは楽しいが。

そうやっていろいろ考えていると、僕は受託会社でシステム開発をすることに楽しさを感じることは難しいような気がしてきた。

それよりはあるアルゴリズムを改良することが会社の利益になるから、機械学習なり何なりを実装する、といった既存の枠組みには無いロジックを実装していくような立場であったり、会社として特定のサービスを運用していて、その改良を提案して実装していくような物自体を良くすることが第一義でその実現方法としてコーディングが有るような立場のほうが良いのかもしれない。後者は受託開発の会社ではなかなか発生することがない、それは「受託開発では言われたことを短時間で仕上げて利益率を上げること」が目的関数であり良い物を作ることは二の次であるからだ。

この良い物を作ることが二の次になっていることも僕のやる気を阻害する一員なのかもしれない。せっかく作るのであれば良い物を作りたい、というおそらくものづくりをする人にある根源的な欲求を満たしづらいのだ。

やはり、適当に作っておしまい、を大量に繰り返すことに抵抗がある。自分が作ったものが役に立たないのは、それで以下にお金が稼げたとしてもやっぱりやるせない。