The sun rises again.

フィクション

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福岡に久しぶりに言った。


最後に言ったのは大学学部のときだったように思われるので、もう4年ほどたつ計算になる。あの頃はなにかあるたびに飛行機に乗って福岡に行き、適当な安宿をとってひたすらにラーメンを食べていた。ひどいときには2日で合計7件、そして殆どの店で替え玉を数回するという、なにか狂気めいた勢いであった。


今はもう当時のような鬼気迫ったものは無い。嫌いになったわけではなくむしろ好きだが、特段食べたいとも思わない。サンドウィッチとコーヒーのほうがありがたいと思うようになった。

なぜ福岡に来ているかというと、端的に言うと転職活動である。新しい職を探しに福岡へ来たのであった。

 

そもそも転職活動を始めた理由としては、現状の仕事内容にとても不満があるからである。
もともとは機械学習がやりたくて入ったのに、現状のメインはAPI開発とフロントエンドのvueとインフラ構築、お客との契約交渉・要件定義など。エンジニアリングばかりが先行して、まったく機械学習に関してのアウトプットも、インプットも途絶えてしまった。論文をちょろっとかじることはあっても内容を精緻に読むような時間も気力もなく、数式もここ数ヶ月自分では書いていない。ほんとうは機械学習を業務で使いながら最新の内容をインプットして、それを更に製品に載せていく、ということをやりたかったはずなのだ。


でも全然できていない。
プライベートで勉強すればいいのだろうけれど、それももう気力がなくなってしまって途絶えた。エンジニアリングは嫌いではない。作るものにはこだわってちゃんと作るし、動いてそれが役に立つととても楽しい。でも本当は業務で機械学習をやりたいんだよな、というのを捨てきれなかった。

そして転職活動をしているわけであるが、今回の博多での会社の面接でその気持もどうやら本当かどうかがわからなくなってしまったように思う。面接内容は簡単な線形・微積の知識を、口頭で聞いていくというものだった。内容はとても簡単だ。下手すれば真面目な大学一年生ならすべて答えられるし、研究する人間であれば、それこそ思考なしに秒で答えられる必要がある。それに僕は詰まりまくった。詰まってはいけない問題で。
原因は明らかで、僕が最近数学に向かっていないから。思考のための記憶の引き出しが錆びついて動かない。ここにはいっている、ということはわかるのに出てこない。

 

哀れだった。悲しかった。
僕はここにいてはだめだと、思った。

 

僕は自分でも知らない間に、数学も機械学習も理論的なことが全然できない人間になっていたことを、そこではじめて発見した。できると思いこんでいたが、できなかった。これが現実だ。昔取った杵柄を過信していたのだった。自己研鑽を怠った人間の末路が、そこにはあった。

 

悲しい思いになりながら、せっかく福岡へ来たからと事前に予約していた別府へ移動したが、正直なところもう帰りたいという気持ちしかなかった。温泉には入った。とても気分は良かった。しかし心が重たい。
重たい気持ちのまま、翌日別府駅に向かい、すでにとっていたチケットの指定の時間を変えて早めにしてもらおうとしたところ、時間変更が効かず自由席でも乗れない券であることが判明した。出発まではだいたい4時間ほどある。特にやることはないしカフェで作業でもしようかと駅前のロータリに出た。ロータリの端に小さな掘っ立て小屋のような物があった。どうやら今丁度アートのなんらかのイベントをやっているらしい。
暇だったのでそこでチケットを買い、会場である別府公園まで歩いていく。

 

公園では幼稚園の運動会をやっていて、その後ろでは大学生の合奏団と思わしき団体が、何らかの行進の練習をしていた。
嫌に牧草的で、無秩序である。アート会場っぽさのかけらもない。どこでやっているのかもよくわからず適当に歩いていると、公園の真ん中にぽつねんと四角い箱がおいてあった。これはまさに置かれていた、というのがふさわしいと僕は思った。打ちっぱなしのコンクリートでできた四角いそれは明らかに浮いている。近寄ってみるとそこが作品がおいてある部屋であるらしい。

駅前で買ったチケットを渡して中に入ると、そこには大きな穴があった。見た瞬間にこれは金沢でであったあいつだとわかった。


その穴と初めてあったのは大学3年生のとき。友達と金沢まで東京から車で700キロを一日で移動するというアホみたいな日程の夕方に、時間つぶしで金沢21世紀美術館に入った。特に事前知識も入れずぶらぶら常設展を見ていたなかに、それはあった。コンクリで固めたれた部屋に、斜めに穴が空いている。よく見るとそれは物理的に穴は空いておらず、斜面に黒い塗料が塗られているようだ。しかしその黒が、僕がみた黒の中で最も真剣な黒であった。塗料であることがわかっても、それを受け入れられないような、圧倒的な黒。いくら見てもその不思議な体験が不気味であり、また僕の既成概念とかいつも使っている認知を揺らがせる心地よさがあった

 

その黒が、別府にいたのだった。
久しぶりにあったそいつは、前とは違う表情をしていた。今、明らかに僕はそいつの圧倒的存在感に負けいる。飲み込まれそうだった。
今のぶれぶれの僕を激しく揺さぶるように感じた。実際にはただ壁に色が塗ってあるだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。しかし僕の感覚はその単純なる存在にボコボコにやられてしまっていたのだった。

同時になぜか励まされた気もした。僕は変わらずここにこうやって存在している。別に飲み込みやしない。そう思っているのはきみがずれているからなんじゃないか。
ある種のスケールとして私を利用しろ。自分についてもう一度考えてきなさいと。

同じ展示の中にあったドキュメンタリー映像の中で、その作家について「西洋の男性主体の彫刻を女性のものにしてしまった」というものがあった。
まさに僕もその女性的、母的なものを感じたのかもしれない。そうでないのかもしれない。