The sun rises again.

フィクション

2017/08/29 社会との距離感

最近色々なことを考える余裕がなくなっている。というより一つのことに集中して立ち向かうことができていない。昔は本を一冊読むなんて造作もないことだったように思われるが、今では好きな本ですら数ページ読むのでもしんどい。集中が続かない。そうして昨日も堕落論を数ページとセロ弾きのゴーシュを読んだだけで精一杯になってしまって、インド哲学なんてまったくもって読めなかった。正確には一章だけなんとかページをめくり続けたものの何も頭に入ってこず、気づいたら30ページで前後の文脈もわからなくなっていた。文字列としては頭が認識しているし発音も意味もわかるはずなのに。

こういう現状を鑑みると、本を読むという行為は本質的に相当な集中力を要求される作業であることがわかってきた。こちらが準備万端になっていないと、本から何かを得ることはかなり難しい。読んでいても楽しくないし、中身もわからない。そして僕はその準備が最近できていないのだろう。

ではなぜ準備ができないのかということだけれど、これはおそらく慢性的なカフェインによる薬漬けおよびアルコール、あとは仕事上のストレスが原因であろう。もっともカフェインに関しては昔からであるから、おそらくはアルコール及び仕事。特に仕事のストレスは大きい。

そもそも人と長時間一緒に過ごすということがやはり苦手だ。それは相手が僕と仲が良くても、である。どうしても気を使う。

 

一番つらいのは何気ない会話を何気なくできないときだ。

何かを質問されて不意に答えた内容が相手を不快にさせたとき。僕には相手を傷つけるつもりも不快にさせるつもりもなく、他の作業に思考の大半を向かわせつつ適当に処理した会話が、一般的社会人というか人間というかのグループとして擁護できない発言になってしまう。

この事実自体が僕自身が社会に溶け込めれていない証拠の一つのように感じられる。会話に意識を集中してただどうでもよいウケ狙いの発言をするときだけが安寧で、しかしそのウケというのはどこかで見たり聞いたりしたのをそのままコピーしているわけであって、それ自体に僕は無い。

そして、それをやるたびに僕は僕ではないその行為が社会をなごませているその現場を否が応でも見せられると同時に、僕自身はそこからは排除されているのだということを見せつけられるのである。