The sun rises again.

フィクション

人間の条件

題はアーレントから戴いた。

しかし、アーレントの人間の条件は読んだことがない。ふと人間の条件という事が思い立ったからだ。

今日は日曜日だから、どこかに出かけようという話をしていた。しかし僕がうだうだと寝ていたせいで、出かけたのは15:00を過ぎてからだった。とりあえず必要な用事だけを済ませて、本を買った。最近は数学と哲学の本以外の本を買っていなかったし、読んでもいなかったことを思い出して、気になる本を適当に買った。

 太宰と石川淳はいつも通りという感じで、ちょっと気になって買ってみたのはソ連の本と宮台真司の本。やっぱり社会というものがどういう風に成り立っていて、どの制度のときにどのような事象が発生したのか、という観察と考察の記録を欲しているのだろうと思う。最近はこちらの方向に頭をつかう機会があまりなかったから、ちょっとづつでも勉強したいなと思う。

本を買ったあと彼女と二人でご飯を食べた。

普通にご飯を食べて、お酒を飲んで楽しくしていたはずだったのだけれど、いつの間にか僕がその場にいることがとても苦しくなってしまった。それは彼女が不快な発言をしたわけでもなく、場の空気が悪かったからでもなく、純粋に僕が公共の場所にこれ以上居ることがどうしてもできなくなってしまったのである。なんとなく食事をしていることに対する自分の主体性の無さと、時間を浪費しているのではないかという虚無感と、このように思って彼女に迷惑をかけることへの申し訳無さとが相まって、僕にはもうどうしようもなくなっていた。

彼女には申し訳なかったけど、早くに食事を切り上げて僕だけ先に家に帰った。電車に乗っても良かったけれど、なんで僕はこんな行動をしているのかわからなくて、頭を一回冷やしておきたかったから、歩いて帰った。

普通の人が普通にすることができないのは、なんでなのだろう。

電気羊は夢を見るか、にあった人間の条件は相手の気持ちを感じることができるかどうかだったような気がする。僕の場合相手がどう思っているかは、多少は感じ取れる(と思っている)からその点では人間なのだろうけれど、それを行動に移す際にどうしても我慢できないことが発生してしまって、もうどうしようもなくなってしまうことがあるのは、人間の条件に反しているように思える。

 

親密な関係にならない程度で接する、例えば職場の人と仲良くする、というぐらいであったら、我慢して友好的な関係を気づくことはできるし、それは特に苦になったりはしない。でもそれを超えて、極限まで近くに来る人に対して、僕は接し方がわからないのだろう。

ちょっと離れている人だったら、その人がいないすきに色々と発散することができる。そしてその発散のやり方もタイミングも、僕は人生の中で学んでいる。でも一方で、彼女になる、特に結婚をするかどうか、なんてことまで真面目に考えている相手に対して、そうやって表層上の付き合いでは行けないと僕が思っているせいで、気づかないうちにストレスがだんだんと溜まっていて、一定を超えてしまうともうどうしようもなくなる、のかもしれない。そうだとすると僕はありえないぐらい自己中心的であって、僕が相手であったら確実に怒るし怒るですまないかもしれない。

そして「だってそれって、相手に対してとても失礼じゃないですか?」と問うだろう。

そうなのです。とても失礼なんですよねーアハハハ。でもね、そうしかできなかったのですよ。

と泣きながら答えるしかない。

でも泣いたって事は良くならないし、彼女が今日傷ついた事実は変わらない。とりあえず僕に出来ることは、次から同じような事が起こらないように努力するということと、キルフェボンのケーキを買って彼女に謝りに行くということだけだ。