The sun rises again.

フィクション

区切り

先日、大学院の卒業式があった。本当はこの手の行事物はあまり参加したくはないのだ。節目が来たからと言って、特に新しく私ができることが増えたわけでも何でもないし、時間と移動する体力を奪われてしんどいだけだ。

しかし母親が実家からわざわざ出てきて卒業式を見たいと言っていたので、私一人の我儘で、出席しないわけにもいかない。

また一方で、修士論文の内容があまりにお粗末だったため、本当に卒業しているのかどうかが不安になってしょうがなかったというのもあった。成績証明等を見ているので、卒業ができていることはわかっていたのだけれど、どうにも実感がわかなかった。あんなふうな生活をしていて、卒業ができるわけがないという、自分への不信感が募ってしょうがなかった。

卒業式自体は至って形式的に行われた。卒業証書授与が、すべての学科に対して、修士、博士、論文提出による博士の3通りの人たちの代表者に対して行われたため、卒業証書授与が延々1時間ほど続いたのには閉口したが、他は特に特筆すべきこともなかった。私の学科の代表者が、名前を呼ばれたときに低音の大声で返事をするという、なんとも微妙な茶目っ気を出していたが、完全に滑っていて悲しかった。

卒業式では、私のような一般修士学生は証書はもらえない。ここの学科ごとに行われる卒業証書授与式において、初めて貰うことができる。このことに、私は卒業式が終わって初めて気がついた。最初は卒業式が終われば、もらえるものだと思い込んでいたのだった。2千人からいるすべての人に渡せるはずがないことぐらい、少し考えたらわかりそうなものだが、おそらく証書がもらえるのか否か、言い換えれば卒業ができるのかどうかが気になってしょうがなかったためであろう。

式が終わったのは4時前で、授与式は4時半から行われる。問題は卒業式が終わったあとに、ララランドを見に行く約束をしていてすでにチケットも購入済みであったということだ。映画が始まるのは5時過ぎで、どう見積もっても5時に授与式が終わるとは考えられないため、授与式に出てしまうとララランドのチケット代それも二人分の3000円が無駄になってしまう。

授与式は参加は必須ではなく、後日取りに来ることも可能であるので、3000円を無駄にしないという選択もあったが、悩んだ結果授与式に出ることにして、相手にはその旨を伝えることにした。私はやはり、卒業できるかどうかが、不安で仕方がなかった。卒業しましたという文書が手元にくるまでは、卒業できたと思えなかった。

結果がわかってしまっている今考えると、ララランドに行って感想でも書きたかったなと思うのだが、まあそれは結果がわかった今だから言えることであって、そのときは卒業で必死だった。もう修士論文も、授業も、事務手続きも全部終わっているというのに。

授与式では、博士を得る人たちは前に一人づつ呼ばれて、博士の授与がありその後に修士は各々の専攻に分かれて、一人づつ前に呼ばれて専攻長から書類を受取、受け取った旨をサインするという、とても事務的な手続きによって渡されることになった。私の専攻の専攻長は、ちょうど私の所属していた研究室の教授であるから、修論で大変大変お世話になった先生から、物理的にも修士号をいただくという形であった。私の勝手な思い込みかも知れないが、受け取る際に先生はおめでとうとは言ってくれたが、本心からそう言っているようには思われなかった。どこか薄ら笑いというか、こいつに修士号をあげるのかという雰囲気が漂っていた。わかってはいる、わかってはいるのです。これが私の妄想であることは。おそらく先生は本心で、そう言ってくれているのです。良い先生なのです。間違っているのは、努力をしていないということがわかっている私の心の方なのです。私の心の醜さを、彼に押し付けているだけなのです。

辛いこともたくさん思い出された。しかし今日ぐらいは、このお情けによって頂いたもので、安心させていただきたいと存じます。