The sun rises again.

フィクション

進行よし

久しぶりに香川に居る母方の祖父母の家に行った。仲が悪いというわけではないのだが、ただ物理的に香川が遠いという理由によって、あまり顔を見せる機会がなかったので、就職という節目で一回会いに行ったらどうか、という話になった。

松山から特急しおかぜに乗って香川坂出に向かう。この特急は岡山に行くしおかぜと、高松に行くいしづちが途中まで連結された状態で運行され、多度津で香川の駅で岡山行きの車両と、高松行きの車両が切り離されるという仕組みになっている。高松行きの先頭八から五号車はどこかと松山駅ホームで探しながら、小さい頃にドキドキしながら特急しおかぜに乗ったのを思い出していた。あの頃は電車に乗るのだけで一大事である。しかも特急であるから、興奮度合いも尋常のものではない。両親の可愛い子には旅をさせよの精神かなにかによって、幼い弟と二人で電車にのった私と弟は、なれぬ電車と未知の坂出の祖父母宅を目指して、大航海時代の海賊のように意気揚々と、そしてどこかに母親の元を離れるという悲しみ寂しさをいだきながら、電車の車窓を眺めていた。

私にはもうそのような感覚を味わうことは、こうやって過去を思い出す以外には、不可能となった。もう24才なのである。坂出駅について、久しぶりにあった祖父母はなんだか、小さくなったように思われた。大きくなった、と言われたけれど、私には、彼らが縮んだように思われた。

車で祖父母の家まで移動し、雑多な話をする。私がもう働くということを見据えてなのか、今までにはしなかったであろう話を、たくさんしてくれた。お見合いのこと、その時の縁のこと、仕事をするということ、年をとるということ。そうとは言わなかったが、彼らの生きることに対する哲学、考えていること、その一端を私に対して公開しても良いと、そう思われていることをひしひしと感じた。もうこの孫は、子供扱いしなくても良いのだ、そういう意図を感じた。

一方の私はどうか。残念ながら、それに応えられるだけの、能力そして覚悟を持ち合わせているとは、到底思えない。やっていることは、自分がやりたいと思っていることを、だたのんべんだらりとやっているだけである。生きるということに対する、覚悟がないのである。事実、これからどうなるのかということに対して、私は適当なことを述べることはできるが、本心からどう思ってるかを述べることは、できないのである。それは考えていないからである、考えることから、逃げているからである。

私には、祖父母のその認めてもらえているという思いには、とてもうれしいと思う一方で、その期待には答えられそうにない私の意気地なしの心に対して、申し訳なく思うのである。一言私は、あなた方が思っているような人間ではないのです、と言ってしまおうかとも思われるような、そんな心地であったが、それを言ってしまえば私が楽になり、彼らは落胆するであろうことは、目に見えているので、言わなかった。こうやって私は、段々と自分の気持ちを打ち明けることができる場を、失っていくのであろう。

坂出を出て、岡山へと向かう電車で、私は先頭車両に乗った。運転手は新人のようで、隣には指導教官と思われる人が、つきっきりで指導をしていた。「進行よし」「進行よし」。気分のいい声が、一枚壁を隔てている客室へも響く。私は、電車に乗りたくて、また運転したくてたまらなかった小学校の時分を思い出しながら、新人車掌の一挙手一投足に、見入っていた。