The sun rises again.

フィクション

僕の大好きな青髭

この世界はピラミッドの集まりだ。生まれ落ちた途端から、俺達はピラミッドに圧しひしがれている。家柄のピラミッド、貧富のピラミッド、能力のピラミッド。そして、幼稚園から大学へと連なるピラミッドの階段を、一段一段登るという形でおれたちは成長し、そのあとは会社や権力組織のピラミッドが待ち受けている。そしてその無数のピラミッドが集まって出来上がっているのがこの世界で、おれたちはみんなそのピラミッドの階段を息せききって駆け上らされ、そして自らその巨大な弱肉強食のピラミッドを創る小さな石になる。そんな世界のどこに自由があるんだ。(148p)

庄司薫の作品は、全体的に青臭い。それは扱っている題材がそうであるからしょうがないのだけれど、この青髭に関しては、その青臭さが特に磨きがかかっているように思える。これは別に悪い意味ではなくて、若者というある種の人間たちがぶち当たる壁について、丁寧に描写しているということを指して言っている。そしてその若者というのに僕も含まれている。

始まりはよくある若者っぽい行動である。自殺だの奇抜なファッションだの世の中に迎合できない気持ちだの。そしてそれに対抗する社会の代表として、自殺を記事にしようとする新聞記者が登場する。ここだけ見れば、すごく浅いただの小説であるのだが、そこから先が面白い。

まず第一に、若者っぽい行動をしている人間が、若者が失敗することを一番良く知っていること、そしてその若者を追い立てる社会の側として立ち現れているはずの新聞記者が、実は一番若者らしい気持ちを捨てられていないことが明らかになるのである。

この逆説こそ、人間が生きていく上で一番つらいことの一つであろうと、僕は考えている。
希望を持ち続けるがゆえに絶望して死にたくなり、絶望を絶望として痛いほど知っているがゆえに、死にきれない。
単純な若者対社会という二項対立が、この仕掛により立体的に立ち上がって、もはや敵が何なのか、よくわからないという状態になる。

人生というのは、若さ対社会なんて簡単な構造では理解できないし、そんなふうなことを期待した貴方は、社会のことを本当に考えていますか?という風に作者に問われているように、僕には感じられた。

そして実はこの敵というはつまり、人間が生きているということ、生きるという行為に常につきまとうことであると、物語では語られる(少なくとも僕にはそう思える)。様々なメタファーが飛び交い、正直すべて理解できているとは到底思うこができず、推察であるが、作者はこの作品を通して、人間が生きることの大変さそしてそれを矮小化させることの意味の無さを問いかけているのではないか。そう感じた。