The sun rises again.

フィクション

右足のことを考える日

最近ちょっと太ったように思う。ズボンを履いても少しふくらはぎのところが張っているように感じることが多い。体重で言うとそれほど変わっていないので、筋肉がなくなって脂肪に置換されているのだろう。

理由は簡単で最近食べ過ぎなのである。そして飲み過ぎ。

飲んでいると、いらないものまで延々と食べる悪い癖が、最近助長されている。食べたって別にその場で少し楽しいだけなのに、なぜ食べようとするのか。冷静になった今考えればまったくもって意味がわからない行為だけれど、そのときはやりたいからやっているのであって、人間とはよくわからないと常々思う。

理性が飛ぶとうのはあのことを言うのだろうと思っている。普通にしているときはなんとも思っていないこと、やろうと思っていることが、全くできなくなる。あるいは抑えていることを、抑えることができなくなる。

食事や飲むという方向にこれが発揮されてしまうと、僕のようにただ太っていくだけであるが、こと言論に関して言えば、この「理性が飛ぶ」という現象は心地が良いときがある。僕は常に何かごとを考えていることがとても好きなので、そうやって「理性が飛ぶ」と自由に発言ができた気分に一瞬なるのである。これが心地よいというか、思いもよらない発想となることがしばしばある。しかしこの自由な発言というのも結局はお酒によってもたらされたものでしかなくそういう意味では下劣極まる理屈に酔って発生したゴミのようなものであるし、そもそも考えることが好きなのであればちゃんと考え抜く勇気をもって考えるべきであって「理性を飛ばす」なんていうのはそこから逃げている、というのも真っ当である。

しかし、これは楽しいのだからなかなかやめられない。飲みすぎた翌日に頭が薄ぼんやりとしてシャキッとしない時には、もう飲まないなんて思っているんだけれど。

 

今日もその飲みすぎた翌日であって、朝からシャキッとしたいがためにランニングをした。そして右足のアキレス腱を再び故障した。

右足は、先週のいつかの飲み会で、泥酔に泥酔を重ねて、四条の飲み屋から下鴨の下宿までをだらだらと歩いているときに痛めていた。その時は茶色のチャッカブーツを履いていて、酔っ払ったせいでちゃんと歩けなくなり、ブーツがかかとの上部分を圧迫したためになったのであろう。

しかしこの痛みが微妙なのである。歩こうとするときは特に痛くない。しかし走ろうとすると痛い。だが走っているとちょっとすると痛みが引いていって、少し違和感がありながらも走れる。そんな様子が何日か続いて、少々の痛みなんてこと無いと言い聞かせながら毎日ランニングをしていたのだが、どうも痛みが強くなるように感じられて、ここ2日ほどはランニングをしていなかった。

痛みも引いて、もう走れるだろうとよんで、今日走ったのだが、終わった今の痛みが今までで一番強い。とても痛い。座っていても、アキレス腱の部分が張っているのが感じられる。

医者に行ってもおそらく「安静に」と言われるのはわかっていて、「なぜ走ったんですか、阿呆なのですか」と言われるのもわかっている。しかし、実際にやってみるまで信用ならない阿呆なので、誰にどう言われようとおそらく僕は走って、そして足を痛めるのだ。今日みたいに。

 

右足を自由に使えないというのは、ちょっとばかり不便である。部屋を移動するのにも足は使うし、寝ていたってちょっと角度に気をつけないと痛みが伴う。

なので今日はずっと右足のことを考えていた。

意外とこういうことがないと、自分に右足も左足もついていることを意識することはない。それはそこに当たり前にあるからだ。そしてそれがない人もいる。

移動する時、立っている時、座る時、いつだって右足は使う。でもそれは右足をこう動かして、という意識としては現れない。僕は「移動したい」「あるきたい」と思っている。右足がこうなって欲しい、という願いは、服屋の鏡の前でちょっとX脚になった右足をみて「まっすぐにならねえかな」と思うような時ぐらいである。

今日の僕のように、右足を痛めて初めて、こういうときに右足を使うんだ、ということが否が応でもわかる。機能として失われて初めて、右足があることの意義がわかる。しかしそれは強制的に「わからせられている」のであって、あまり賢いとは言えないように思う。自分の経験を大事にすることはいいことであるけれど、人間には想像力がある。豊かに想像すれば、右足が上手く使えなくなる世界を、右足がちゃんと動く人でも、考えることができるだろう。それは実際に右足が無い、使えない人からすれば「違う」のかもしれないけれど「ちゃんちゃらおかしいぜ」とはならないように思う。

 

こんなことを思っていると、この右足というのは別に右足そのものを指さず、もっと一般的なものとして認識することもできるのではないか、という気分になってきた。

それは例えばお金があるとか、どこの国で生まれたとか、性別とか、職業とか。

そうなったらどうなるだろうか、ということを考えて、僕だけではなくてみんながちょっとでも良くなったらいいなということを考えたい。そう思っていた。

でも右足は痛いままだ。走った僕が悪い。けれど考えれたのでまあよしとする。