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The sun rises again.

たのしくにっき

いずこへ

私は一人であった。  
今も一人であった。  
深夜バスに一人で乗り込み、三列シートの窓際の席で、読書灯を照らしながら、眠れられない夜を過ごす。効きすぎたクーラーがしんみりと体を冷やす。

私は彼女のことが好きなのだろうか。愛はそこにあるのだろうか。

それについて考える3日であったように思われた。私は一度断ったのだ。断ったのにも関わらずなぜ今も連絡をとりつづけ、今回のようにまた未練がましく会っているのだろうか。本当に未練があって連絡をしているのだろうか。それすらもよくわからない。

普通未練は断られた方、即ち女の方に有るのであり、私は結果を作った側であった。そして選択をした側であった。

選択の上に未練が有るとすればそれは、その選択に何かしらの「迷い」があり、その事柄に就て後悔をしているからである。
迷いには2つ有る。一つは、よくわからないから選択ができないという迷い。二つ目はその対象についてよく知りすぎていて、かつ優劣が付けられないぐらいにその二つが似通っているために起こる迷いである。

私は人に愛されることがあまりなかったように思う。正確に言えば無償の愛というものを感じることがあまりなかった。それは即ち、愛があったとしてもどこかそれが歪んだ報酬を、対価を私に要求するようなものであったということもできるかもしれない。

私の母は私を愛していた。今もおそらくは愛している。しかし私はそこに心地よさを感じることができない。それは、おそらくであるが、私と母との関係が、親と子のそれではないからであるように思われる。私は母をおそらく姉かそれに準ずる存在として認めていた。父は私に対して父としての立場を取ることはあまりなかった。私は、父に何かを矯正されてやらされることが全くと言っていいほどなかった。ただ好き勝手に、そこに存在することが、認められていたのである。

好き勝手にやった結果として残ったのは、やりたいことだけをやるという、子供のままの感覚だった。たまたま私の場合は、それが勉強に向かっていた。であるから、中学高校大学と、勉強をやっていれば大きく脱落することのないうちには、なんとかごまかしごまかしやってこれた。
勉強には自己強化のシステムが組み込まれている。それは即ち、やればやるほど、わかるようになり、見える範囲が広がって、また更に勉強が面白くなるというものである。私は勉強にとりつかれていた。勉強というよりも正確には、受験勉強に近い。答えの有る問題を解く、そして誰かと競いあうこと。この数万という同じ時代に生まれた人間どうして行われるパズル大会に、心を奪われていたのである。

要するに勝手気ままにやっていたのである。そこに、私が何がやりたいかとかいうこと、やりたいことはそもそも何なのかと言った考えは、存在していなかった。

考えが有るとすれば、それは、この家の長男であり、下手な失敗は許されない、失敗したくないという、卑劣な敗北者根性である。

第一に勇気がない。決断もない。意志がない。君の意見がない。私がいない!!

そうして私は、自分で物事を決定することができなくなった。そして更にたちが悪いことに、決定したふりをする場合は何かしらの言い訳をするようになった。大義名分を見つけてから、政治的に処理するようになったのである。かくして、もっとも私的な決断、どっちに転んだとしても正解であるし、どっちに転んだとしてもそれを選ぶ主体に、責任が及ぶ事象に対して、及び腰になってしまった。

迷いについて、先に述べた。私は優劣が付けられないのであった。それは、一見、だれも傷つけたくないという、優しい心のようで、実相は、私が下した判断によって悲しむ人に対する或る種の責任を、放棄しているだけなのだ。誰もが、自分が思ったようにことが進むなどという、都合の良いことはこの世には存在しない。実際には選ばれるものがあり、そして選ばれない落伍者がいる。そうして人は生きていくのだ。

私には、落伍者となる勇気がない。
私の決定によって落伍者の烙印が押される人を見ること、そしてその悲しみを背負うこと、その覚悟がない。全く持って、甘えが具現化したような、そんな存在であった。