The sun rises again.

フィクション

ひとに見られるということ

最近ランニングをしている.

今僕は,帰省していて愛媛に帰ってきている.実家があるのはその中でも街中にある.近くには山に作られた城とその周りにある堀,その内側は今は公園となっていて,きれいな美術館も立てられている.

反対側には,一番の繁華街である商店街があり,近くには百貨店高島屋が鎮座する.もともとはSOGOであったが気づいた時には潰れて高島屋になっていた.

ランニングのコースは決まっていて,一旦城の近くまで行き,そこからちょっと離れたところにある道後温泉へと向かい,温泉近くにある公園を一周してからまた適当に帰ってくる.とくにランニング用に整備されているわけでもなく,地方だから歩いている人も少ない.働いているひとは皆車に乗るからである.いるのは年金暮らしの老人と観光客だけである.

そこを走るわけである.走っていると汗をかく.8月の終わりとはいえ,雨も降らないから残暑が厳しい.それに僕自身が汗かきである.よって走っていると尋常じゃない量の汗をかくことにある.顔からは汗が滴り,メガネは曇り前は見えない.胸と背中にも当然汗まみれで,服もビショビショである.その辺でシャワーを浴びてそのまま出てきました,といっても別におかしくはないぐらいである.

そうやって走っていると,この自分を外から見た時どう思うのだろう,とふと気になってくる.なぜ気になるかというと,走っている時はとくにやることがなく暇だからである.暇な時とくに本を読むこともできない(走りながら本を読むやつはおそらくいないだろう,歩きながらなともかく),スマホも最近は歩きながらの操作にはうるさいゆえにできない,となると合法的に許されるのは妄想ぐらいである.ゆえに先の疑問が湧くのもしょうがない.

このビショビショの自分はどう見えるのか.

これは簡単に見えて難しい問題である.まず自分が20を超えたぐらいの若い男であるという点はかなり重要な要素である.なぜならそのぐらいの男であれば,代謝もいいだろうから汗ぐらいかくだろう,という解釈を行えるからである.また僕はスポーツウェアを着て走っている.従って見た目で「ああこの人は走っているんだ」と判断することもできる.従って少々ビショビショであっても,そこそこ合法的にそこに存在できる.

これが例えば無精ヒゲを生やした50ぐらいの小太りのおじさんで,普通のTシャツをビショビショにしていたらどうだろうか.明らかに危ない.危険である.まずその液体はなんなんだ本当に汗か,と聴きたくなるだろう.

また,10代で制服を着た女の子であればどうであろうか.確実に道行くひとが皆二度見するに違いない.写真を撮ると捕まるかもしれないので,頑張って脳みそに焼き付けようと躍起になるだろう,僕なら.

 

以上の考察から,人間がそこにいても合法的か,また不快か否かはその人の持つキャラクタ,社会的立場,美しさ,によって大きく変動することがわかるであろう.そしてそれに常識,言い換えれば社会の秩序が関係する.今属している社会においてそれが認められているかどうか,の影響を知らない間に僕たちは受けているのである.

そんな下らないことを考えながら,ダラダラと汗を流しつつ今日も僕は走っている.