The sun rises again.

フィクション

卒業のことを考えるなどする

2016年8月2日。

朝起きない。それはすでに起きているからである。前々日に酒を飲んだせいで、だいたい13時間ほどの睡眠をとっていて、そのせいで眠れなかった。

特にやることもない。だらだらと国際政治と世界史の本を読むが、大して頭に入ってこない。前の日から寝ていないのだから、ちょっと難しい本の内容が入ってこないのは当たり前である。

そうこうしているうちに、朝になった。気分を変えるためにジョギングに出かける。最近のコースは自宅を出てから、ぐるっと鴨川の三角になっているところを、北は上賀茂下は鴨川デルタといった具合に、回ってくるコースで大体10キロぐらい。1時間ほどかけてのんびりと走っている。朝方は川沿いを走っている人もかなり多い。いい大人が朝から大挙して走っているのをぼうっと見ていると、なんだかある種の強制労働のようにも感じられる。いや自分もその中の一部なんだけれど。

この時期走っていて目につくのは、大量のみみず。みみず、みみず、みみず。

たぶんみんな夜のうちに「もっといいとこ探してたびに出るんだ」って出かけていったは良いものの、道端まで出てきてしまったせいで地面を掘ろうにも掘れなくなり、地面でうごめくしかなくなっているのであろう。家に帰って調べてみると、みみずは地中の水分量が多くなると、地上に出てくる習性があり、そのまま帰ってこれなくなる場合もある、とある。でかけたまま帰ってこれなくなるとは、なかなかにロックな奴らだ。

帰宅後、パンを買いにパン屋に出かける。いつもと同じ、たまごサンドイッチとクロワッサン、それにただでいただけるパンの耳。このパンの耳にはかなりお世話になっている。ありがたい。

家に戻りもそもそと朝ごはん。暑いので下半身を露出するスタイルでいると、宅急便が届いて焦るなどする。

 

昼過ぎ、家にいても退屈なので、京都近代美術館に出かける。

ユークリッド距離で測れない、西洋の近代的な技法をぶち壊した人が流行った時期の展示(雑)だった。人が書くのではなく、素材自体すなわち人が影響することのできないすでに出来上がった素材で表現することで表現というものをぶち壊す人がいたり、ぱっと見は偉い水墨画の先生が書いた絵に見えるけど実は書き方が乱暴(ボクシンググローブに墨をつけて殴る)人が居たり、とにかく既存のものをぶち壊す人の作品がたくさんあった。1950年~60年台という時代もあるのかもだけれど、あの時代の人達の作品は文学にしろ絵画にしろ、既存のものを壊して自分たちがやるんだ、という気概に溢れていてとても眩しい。現代の若者の端くれたる自分もそういう情熱を燃やせたらよかった。

 

夜は、適当に炒めた辛すぎる野菜炒めと豆腐とビール。あとその後にホットケーキを焼いた。最近酔うとホットケーキ食べたくなる病にかかってしまったようである。バターで焼いたホットケーキは、抜群に美味しい。

寝る前に、卒業のことを考えるなどする。

去年の終わりぐらい、本当に僕は卒業をすることに意味を見出せなかった。

それは親しい友人たちがみんな留年しているのに別になんてことないふうにしかみえないしむしろ楽しそうに大学生活を送っているようなのもあるし、今更23にもなって授業とかいう意味が見出せないイベントに参加しなくてはいけないことに嫌気が刺したこともあるだろう。

卒業して、何になるのか。ただ単位だけをもらって授業のことは全く覚えていない。手に残るのは卒業しましたよ、という証明だけ。そういうと「いや証明書はもらっといて損はないぞ」ということを言われる。そしてそれはたぶんというか絶対にあっている。

でもそうやって頭のなかでわかっていることでも、行動に変えられないこともあるのであって、僕は実態がほしいんだ、ただの証明書じゃなくて僕の血となりにくとなる、将来あああそこでこういう授業を受けてよかったなというようなことをしたのであって、べつに権威がほしい訳じゃないんだ、なんて。

そうは言ったって実際他人が僕を評価するときに一番わかり易いのが顔、金そしてその権威であることも確かなのであって、そういうことを考えるときに僕はちょっとげんなりとしてしまいます。そしてそのげんなりとしたことを自分が1割ぐらいはしてしまっているのにも気づいてしまって、そうしてまたやるせなくなるのです。