The sun rises again.

フィクション

張り合い

もう駄目だあってなって、会社を休んでしまったのはもう何度目だろうか。特に何が否になるわけでもないのに、会社に行くことができなくなってしまうんだよな。

いや理由ははっきりしているのかもしれない。それは僕が会社に行っても、別に行かなくっても、特に何も変わらないということを僕がよーくわかってしまっているからなのだった。別に行っても行かなくっても、いてもいなくっても、大して変わらない。僕がいなくても仕事は回っていくし、会社は回っていく。それでも別に僕が会社の中で地位がないとか、そういうわけじゃないんだ。むしろちょっと尊敬というか、あいつはできるやつだと思われているフシすらある。それ故に、別にちょっとばかりサボっていようが何していようが、何も言われないし、逐一仕事の内容を監視されるわけでもない。だから、日々の仕事はきっちりとタスクが決まっているわけではなくって、僕ができることを見つけて、自分でやることになる。そうなると、僕のインセンティブというか、働く意欲って何なんだろうと思うと、それは会社の利益ということになるのだろうけれど、別に会社が儲かったところで、僕の給料は上がるわけではない(すぐにはね)し、株を持っていてその価値が上がるとかもない。ようするに僕の仕事は完全に僕のやる気に完全に委ねられているわけだ。そりゃ、やる気は出ないよね、という話です。

 別に仕事内容が嫌いなわけじゃないんだよ。むしろ好きだ。天職だと思っている。これ以上に楽しい仕事はないと思う。それに、やりたいことはやらせてもらえるし、残業が多いわけでもない。でもなんというか、張り合いがないんだ。僕が頑張ったところで、何かができるわけでもないし、頑張らなかったところで、何かができないわけでもない。

要するにいてもいなくてもいいんだ。悲しいことに。

ヘビーに仕事して、しんどくなって、働けなくなることもわかるけれど、こうやって仕事に張り合いがなくなっていって、段々としんどくなっていくのもあるんじゃないかなあって。とても思うのであります。

ハッピーバースデー

誕生日だった。祝ってくれたのは数人の友達と母親からのLineのみであった。僕はいつもどおり昼まで寝て、なんとなく起きてきてから仕事を少しすすめていると気づけばもう11時を回っていた。空腹であることに気がついたので、深夜までやっているスーパーに買い物に行く。適当に着替えをして、持ち物は財布と携帯とイヤホン。とても寒い。そうやって歩いていてふと携帯を見ると日付が超えていた。なんだか僕の人生はこうやって、なんとなく進んでいってしまうのだろうなという感覚に陥った。別に祝ってもらえないことが悲しいわけではなくて、こういう区切り目の日すら、特に記憶に残らない形でだらっと消え去ってしまうことににわかに気づいてしまって、もうどうしようもなくなってしまっていたのだ。

その瞬間、すべての事象がめんどくさくなり、僕はもともとあった予定を仮病で休み、一人家のベッドで寝転んでいた。何もかもが嫌なのだった。できればこのまま一生起きずに過ごしたいと思った。誰も何も、僕に干渉しないし、僕も干渉しない。僕は夢の中でだらっとした優しい世界で生きていく。それでいいじゃないかと思ってしまうほどに、僕は弱っていた。

でも同時に、そうやって腐っていてもなにも物事が解決しないことも僕はよくわかっている。だからもうひとつの予定の方(こちらの方は先断ったものより幾ばくか行きたい気持ちが強かったので断らなかったのだ)があることもわかっていて、それのためには少なくとも16:00にはベッドを出てシャワーを浴びてワックスをつけて歯を磨いて、いい感じの服を選ばないといけないのだ。別に寝ていても僕は死ぬわけではなく、予定をしている相手が悲しんで僕の社会的立場が少しなくなるだけだから、寝ていたって良いのだけれど、そう僕はずっと寝ていてもダメなことはよくわかっているのだった。僕はいやいや、16時間弱の睡眠から目覚めた。

気の進む予定といってもとても平凡で、女の子とご飯を食べに行くというただそれだけだ。で、僕はあまり女の子と遊びに行くことがないから、喜々として遊びに行く、ただそれだけ。日頃なんやかんや言って男性のがっついた感じに眉をひそめることが多いけれど、結局僕も僕が忌避する男の中のインスタンスでしかない。

実際遊びに行くとまあ楽しいし、家にいた時よりも一般的に言って「充実」しているのは間違いない。ご飯を食べに行って、映画を見て、感想を言い合いながら歩いて。

でも結局それも男女のあれこれがあるわけでもなく、ただ受動的に食べて見て話しているだけであって、あまり家で寝ているのと大差はない。相手に対してとても失礼な発言なのは間違いない。別にお前と好き好んで行っているわけではないしそんなに言われるなら今度から行かねえよと言われておしまいだ。

いやこれも違う。また変な理屈をこねて、自分を守ろうとしている。今日の経験がどうなるかなんて、誰にもわからないしそんな基準で行動をするのも変だ。一番まずいのは何も行動しないということだ。行動は尊いのである。そしてその分、行動は責任とめんどくささを伴うのだ。それから逃げているから、僕は家で延々と寝ているのだ。単純なことだ。

口ではよく人生を主体的に生きていきたい。明示的に人生の行動を選択したい、と言っているのにもかかわらず、なんとなく自分が楽な方楽な方に流れていってしまっている現状の自分に対して腹が立っていて、納得行かないのだろうなと。

こころ

気づけば2018年になっており、もうすぐ僕は年を取る。年をとったからと言って何が変わるわけでもない。だた数字の上でまたひとつ年を取り、死へと近づいているだけである。

最近の話をしよう。一番変わったことは去年と比べてとても太ってしまったということだ。見た目には変わらないとみなはいうが、実際体重計に乗れば体重は5キロは増えており、腹にはだらしがない肉が付いている。原因はわかりきっていて、大して肉体を使わない仕事なのにもかかわらず大量の昼飯を食い、そして夜には酒を飲んだあと、そばとかパスタと言って炭水化物を食べるからである。

いくら週に23回10キロほどランニングをしたところで、僕は普通の人よりもたくさん食べている。故に太る。食べる量が増えたのは多分、食べるという行為が簡単に快楽を得られる方法であるからであると思う。食べるとその時はとても気分が良い。楽しい。快適だ。お酒が加わればなおさらである。

問題は、食べるために食べているというか、楽しくなるために食べていることだ。僕は決して「お腹が空いているから」食べているのではないのだ。

正直言って少々食べなくったって人間は死なない。飢餓で死ぬことは日本ではほとんどない。そのとき、食べるという行為は何を意味するかといえば、お腹を満たすということよりも食べることで心を満たすという意味合いが強くなってくる。僕はたくさん食べることによってたくさん心を満たそうと必死に食べているような気がする。

ここまで記述して思ったが、僕は完全に摂食障害なのだろうと思う。なぜこうなってしまったのかはよくわからない。その一端にあるのは、人間として生きていくことがとてもしんどいということにあるのだろうと思う。

毎日会社に行く。誰か他の人と喋る(これは仲が良いとかそういうの関係なく)。こういうふつうのコトがしんどい。まず家の外に出ることがとてもしんどい。まずシャワーを浴びて綺麗にして、ドライヤーで癖がつかないように髪を乾かす。シャツにはアイロンをして、汚らしくないズボンを履く。歯をみがいたあとにはマウスウォッシュをする。そこまで終わったらワックスで髪を整えて、鏡の前で服装がダサくないか確認する。

服がちょっとでもダサいとか、髪型がいい感じになっていないとか、顔が膨れているように見えるとか、ちょっとでも気になってくると途端に出かけたくなくなってくる。もうこうなってしまうとダメで、出かけなくてはならない時間になっても延々と鏡の前であーだーこーだやっている。自分でやりながら病気だなと思うけれどやめられないのは、本当に病気なのかもしれない。

ようするに僕は周りを気にしすぎているのだ。正確には周りに馬鹿にされない、下に見られないよう自分を取り繕うので必死になっている。自分が馬鹿である、という評価をもらうことを極端に恐れている。

だから服装とか以外でも、知らないことを知っているように見せかけたり、ちょっと見栄をはって嘘をついたりする。大して考えて嘘を言っているわけではないからすぐにバレるとわかっているのに。でも口が勝手にうそを喋ってしまう。そうしないと僕の自我が保てないからだ。

 

「みんな僕を見て、すごいと言ってよ。」

 

端的に言うとそんなどうしようもない欲求で、僕はできている。みんな少しはそういう気持ちはあるだろうけれど、それの度合いがどうしようもなく、大きいのだ。

馬鹿になれたのならば、正確には馬鹿になっても僕は存在しても大丈夫なのだ馬鹿でも良いのだという確信を持って生きていけるのならば、どれだけ楽に生きて行けるだろうか。そう考えることもよくある。頭ではそうやって生きたほうが良いとわかっているのに、できない。

これも僕の悪い癖だ。そうやって言葉だけ並べてやったほうがいいのになーとか言っているくせに、本気でやる気は全く無いのだ。そういえば去年、好きな女の子と一緒に遊びに行って一緒に晩ごはんを食べている時に同じような話になって、その子に「そうやって口ばっかり喋って。本気でやる気はないのでしょう?」と説教されたことを思い出した。あれは相当応えたけれど、言われて仕方がないぐらい僕はくよくよと口ばかりであったので、至極当然の発言であったと思うし、むしろ優しい発言だったと思う。せっかく言ってあげたのだから直してもう一回来いよという叱咤激励だと勝手に解釈したが、まだもう一度リベンジするほど僕はカイゼンされていないし、そもそも一回断られてから言い直すほど僕には勇気はないのだった。

「あーまたそうやって言い訳してる」

僕の中の彼女がまた囁いている。うるさい、僕だって困っているのだから、一緒に考えてくれたって、いいじゃないか。なんでそうやって僕を攻めるんだ。

「そんなに肯定してほしいの? すごーい!かっこいい!あたまいい!すきー!」

そうじゃないんだなあ。言い訳してしまう根源的原因を探って直してほしいんだと言っているだけど。

「そんなの、あなた、すでにわかっているんじゃないの? ちゃんと心を見なさい。本気でね。」

 

年末いろいろとあり気づけば一週間ほど実家に帰っていた。久しぶりの実家には家族全員が久しぶりにそろっていて、なんとなく高校生の時の賑やかな雰囲気を彷彿とさせた。もちろん皆大きくなっているからちょっとちょっと違っている。しかし中身はほとんど変わっていないように思われた。

やはり家族は安心するし心地が良い。僕のことをよく知っているし、たとえ僕が変なことを言おうとも全部を否定されることはないということがわかっているから。やはり他人同士であればいくらよほど親密な友達ではない限りこのような関係にはならない。

ふと大学一年生の時、初めて一人暮らしをして家を決め、不安と期待でいっぱいの中一人で布団に入って眠った時、なんとも言えない寂しさにさいなまれておんおんと泣いてしまったことを思い出した。あれは自分でも自覚していないうちに、家族に守ってもらっているという感覚があって、それが一気になくなって一人になってしまったことに耐え切れなかったゆえだと思う。今では一人で眠ることにもなれてしまってなんとも思わないけれど、それはなれてしまっただけであって多分まだ心のどこかには満たされないところがあるのだろう。それは実家に帰ると顕著だ。一人でいるのも楽しいけれど、ずっと一人は寂しいものだ。

母親に、付き合っていた彼女のことを聞かれ別れた旨と経緯を伝えると、見たことのないような悲しい顔をして「それは相手がさぞ悲しかっただろうね」と一言ぼそっとつぶやいた。僕はそれを聞くまで本気で相手が寂しかったということについて考えていなかったことに気がつき、狼狽した。彼女は僕のことを好いてくれていたのは知っていて、一方的にこちらから関係をふいにしたことに申し訳なさは感じていた。しかしそれと別れた時に寂しいと本気で思うことが繋がっていなかったのだ。

僕は僕の中の価値観だけしか考えていなかったし、相手が僕と別れるときにどれだけ傷ついたのかもわかっていなかったし、そうして飛び出した「申し訳ない」ということばで更に傷つけたのであった。そして理由は「好きがよくわからない」ときた。たわごともいい加減にしろ。それはお前が本気で物事に取り組んでいないからなんだよ。本気でその人のことを考えることが、好きってことなんだろうと、今では少しは思うので、こういうことを記述しているけれど、当時は本当にこれを言っていたんだよ。なんと悲しいことだろうか。そして多分、ではなく本当に今でも彼女が好きなんだよね。悲しいね。悲しい。

そんなことを考えながら、帰省から帰って一人で家にいると、とてもさみしい気持ちになるのでした。

発表

久しぶりに人の前に立って喋る機会だった。とても緊張した。おそらく同じ会社の同期にも社長にもそれは気づかれていて、明らかにいつもよりも優しい顔で「自分はもっと緊張したし、大丈夫だから」と言われた。 実際はどんな顔で言われたかは緊張しすぎてよく覚えていないのだけれど、多分優しい顔だったように思われる。

僕の発表は大トリだった。はじめに、発表に際して会の主催者がこの会についてや会社のことについて紹介した後、続々と発表が始まった。 僕よりも前のひとたちの発表はどれも、思っていたよりもレベルの高いものだった。 発表のメモをとるふりをしながら、僕はもうさっさと帰りたいとしか思っていなかった。

昔から緊張するとどうしようもなくなることばかりだった。 小学校で野球をやっていたとき、一番最初に代打で出た試合のことを今でもよく覚えている。 足が震えるし、手も震えるし、とうていボールを打つという状態ではなかった。 ずっと打席で震えて、全てのボールを見送ってフォアボールだったように記憶している。 外野を守っているときも絶対に僕のところに飛んできてほしくないとずっと思っていた。

大学のときの卒論発表会もそう。大学院の論文紹介もそう。 全部声は上ずって、脇には嫌な汗をかいて全身びっしょりだった。 それが気になって、余計に汗をかいて、死にたいと思うことばかりだった。

僕はなぜか人の前に立つ場所に行くと、うまくやれないのだった。

一方で、人前に経たなければいろいろとどうでも良いことを偉そうに言うのであった。 人の発表にも文句をつけるし、あれはつまらなかったとか、自分ならもっとうまくやれるとか、そういうことばかり思う人間であった。 自分がそういう場所にたったとき、人よりも緊張するのもおそらくそれが原因なのだろうと思う。 人をいつも下に見ているから、自分がいざ評価されるという機会になったとき、緊張とうまくやってやろうという束縛とで、どうにもならなくなってしまうのだった。

そんな自分がとても嫌いで、それを変えたいとずっと思っていた。そんなときに今回の発表の機会が回ってきたのである。「無理なら僕がやるけど」と言われたけれど自分で手をあげて発表をやらせてもらった。 もし僕が受けなければ、やったであろう人が最近忙しそうで、暇な自分がという気持ちも一部あった。しかし、本当の理由は、自分はちゃんと人前に立ってそれなりに喋れるんだ、というふうに自分に見せつける機会をもらうためであった。僕は自分に自身が無いのであった。矮小な自分がとてもとても許せないのだった。生きていて申し訳ないと思うのだった。

そうして今回発表をした。今回の発表には少し秘策があった。というのも、誰かになりきったつもりで発表すれば恥ずかしくならないだろうと思ったのである。 準備として、前日に大量に藤井猛の出ている将棋解説の動画を大量に見た。あの軽妙で楽しい喋り方が出来れば良いと思ったのである。残念ながら実際には発表前にはそんなことまったく頭のなかから消え去っていたのであった。 結局恥ずかしい発表をして、申し訳程度のそれっぽい質疑応答があって、会は終わった。結局今回も僕は僕を許せるような発表が出来なかった。いくら準備をしても、練習をしても、本番で声が上ずって、震えてしまっては全く意味がないのである。これは僕が僕を許せるようにならないと、治らないのだろうかなと思うの。

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なんてことはない火曜日だった。朝起きてからランニングして、オフィスに行くといつもの通り上司は遅刻していて、お昼には近くの定食屋で同期とご飯を食べ、突然降ってきた仕事にひいひい言いながらなんとか片付けて。

そして二年ほど付き合っていた女性と別れた。 別れを切り出したのは僕の方だった。いつもの通り僕の家の近くの汚い居酒屋で酒を飲んでいた。彼女は中ジョッキの、僕は大ジョッキ1Lの麦酒を飲んでいた。いつもならさっくり飲めてしまうのにその日はなんだか喉に支えるような感じがしてこれをすべて飲み干すのは困難なのではないかと思われた。 彼女と会うのは久しぶりだった。曰く三週間ほど会っていなかったらしい。らしいといったのは僕はその三週間という期間を数えていないし前回会ったのがいつだったのか、そして何をやったのか何を話したのか全然覚えていなかったからだ。それは別に彼女に興味がないとかもう嫌いになったとかそういうのではなく、そもそも人とあった記憶を覚えておくことが難しいのだった。そしてそれは彼女も例外ではなかった。

三週間会わなかったこと、連絡が滞りがちだったことに彼女は不満があるようであった。途中数回会う約束はしていたけど、何か他の予定が入ったり僕が体調を崩したりして流れていた。

会えないのは別にかまわないけれど会えなかったことに対してとくに残念そうな感じもないし、こちらから連絡をしても帰ってこないし、急に予定をキャンセルされたりするしそういうのは良くないよね、と彼女は言った。

これももっともな主張であろう。僕が逆の立場であっても同じことを言うだろう。会えなかった日のツイッターに「今日は一日寝ていたから勉強できなかった」などと言われるとこの人は自分と会うことよりも大事なことで頭が一杯で、ないがしろにされていると思うだろう。それは当たり前だし僕のデリカシーはまったく足りていなかった。

その相手の反応に対して僕は何も言うことはないし僕が悪いのだと思う。

では僕はこの自分の行動を直すことは出来るのだろうか、そもそも直す気はあるのだろうかと考えたとき、それはNoであった。僕は明らかに、彼女と会うよりも家で寝ていたいと思うし、勉強をしていたいのだった。別に彼女が嫌いなわけではない。むしろ好きだといえるけれど、でも彼女の優先順位と僕のそれとは大きな乖離があるのだった。

僕は彼女と付き合い始めたときそれはそれは楽しい気分になったし、すごく幸せな気分になった。今思うとあれは、日頃なれない環境に飛び込んでただ興奮していただけのようにも感じられる。あれが男女の愛であったのかどうかについて、僕は未だにこたえを出せないでいる。愛とは何なのか、僕にはよくわからない。

付き合いましょうと言ったのは僕であった。終わりにしましょうと言ったのもまた僕であった。最初から最後まで彼女は僕に振り回されて、そしてそれに対しては文句を一言も言わなかった。

嫌いでないのになぜ別れなければならないのか説明責任を果たしてほしい、と何度も懇願された。

僕としてもそれに答えたい気持ちはあるが、僕としてもそれに明確な答えを出すことはできない。 ドラマか小説ならば僕が悪いのだ、あなたを嫌いになってしまった、とかなんとか言っておけば、僕が一発殴られたりするかもしれないがそれでその二人の仲が終わってピリオドとなるのだろう。しかし僕は彼女に嘘をつくことはできなかった。 それは好きとか嫌いとかはわからないけれど、人間として彼女のことをとても尊敬していて、そんな人に明確な意思を持ってウソを付くことができなかったからだった。それは僕が責任を逃れているからだという意見も方方から聞こえてきそうだしそうかもしれない。でも嘘はつきたくなかった。本心を話したかった。それが彼女に対する礼儀であるように思われたからである。

わたしは納得していない、と言われたが僕はそれを無視して最後の別れを告げた。

この判断が良かったと自信を持つまでにはもうしばらく時間がかかると思われるが、後悔はしていない。これは最良の判断であったと、僕は思っている。良い人と付き合えて僕は幸せだった。最後まで彼女はとても美しい素晴らしい人であった。

2017/08/29 社会との距離感

最近色々なことを考える余裕がなくなっている。というより一つのことに集中して立ち向かうことができていない。昔は本を一冊読むなんて造作もないことだったように思われるが、今では好きな本ですら数ページ読むのでもしんどい。集中が続かない。そうして昨日も堕落論を数ページとセロ弾きのゴーシュを読んだだけで精一杯になってしまって、インド哲学なんてまったくもって読めなかった。正確には一章だけなんとかページをめくり続けたものの何も頭に入ってこず、気づいたら30ページで前後の文脈もわからなくなっていた。文字列としては頭が認識しているし発音も意味もわかるはずなのに。

こういう現状を鑑みると、本を読むという行為は本質的に相当な集中力を要求される作業であることがわかってきた。こちらが準備万端になっていないと、本から何かを得ることはかなり難しい。読んでいても楽しくないし、中身もわからない。そして僕はその準備が最近できていないのだろう。

ではなぜ準備ができないのかということだけれど、これはおそらく慢性的なカフェインによる薬漬けおよびアルコール、あとは仕事上のストレスが原因であろう。もっともカフェインに関しては昔からであるから、おそらくはアルコール及び仕事。特に仕事のストレスは大きい。

そもそも人と長時間一緒に過ごすということがやはり苦手だ。それは相手が僕と仲が良くても、である。どうしても気を使う。

 

一番つらいのは何気ない会話を何気なくできないときだ。

何かを質問されて不意に答えた内容が相手を不快にさせたとき。僕には相手を傷つけるつもりも不快にさせるつもりもなく、他の作業に思考の大半を向かわせつつ適当に処理した会話が、一般的社会人というか人間というかのグループとして擁護できない発言になってしまう。

この事実自体が僕自身が社会に溶け込めれていない証拠の一つのように感じられる。会話に意識を集中してただどうでもよいウケ狙いの発言をするときだけが安寧で、しかしそのウケというのはどこかで見たり聞いたりしたのをそのままコピーしているわけであって、それ自体に僕は無い。

そして、それをやるたびに僕は僕ではないその行為が社会をなごませているその現場を否が応でも見せられると同時に、僕自身はそこからは排除されているのだということを見せつけられるのである。