The sun rises again.

フィクション

京都

今日から弊社ではお盆が始まる。大企業だと9連休とか11連休もあるみたいだけれど、うちのような零細ベンチャーではお盆は5連休である。実家に帰ろうかなとも考えたけれど、世の中が一般的に休みなときに帰るとなると交通費は高いし人は多いしでそれを考えるだけでうんざりしてしまって、結局帰るのはやめてしまった。

それと同じ理由で何処かに旅行に行くとかも特に考えなかった。

何処かに行くということの喜びよりも、人がいっぱいいるところにわざわざ大金をはたいて行って、用意された観光じみたなにかをして、ということが特に面白いとおもわなかたからである。

大学生のときは旅行に行くのはかなり好きで、休みがあるたびに(そして無理矢理に学校をサボって)いろいろなところに出かけていたので、なんで僕は今旅行に行くことに価値を感じないのだろうとちょっと考えたけれど、あれは世間が休みではない空いているところに出かけることが楽しいのであって、特段その場所だったりは二の次だったのだと言うことに気がついた。

別に出かけなくたって楽しいことはたくさんある。家にいたって本を読んだりプログラムをしたり論文を読んだりやることはたくさんあるし、スーパーまで行けば食料および酒も買えるし、安上がりだ。別に温泉旅館の晩御飯でなくたって、家で風呂に入って風呂上がりに麦酒を飲むのだって、楽しいものだ。

そうやってぼんやりお盆最初の金曜日を過ごしていた。昼頃に起きて、そろそろ髪を切らないと流石に社会的にまずいと思い髪を切りに行った。美容室のお兄さんとエウレカセブンがとても良いという話で盛り上がっていたとき、先輩から「今日飲まないか」という誘いがあった。場所は京都のよく行っていた居酒屋だという。久々に京都に行って、懐かしい人達を会うのもお盆じみていて良いなと思って、阪急電車に乗って河原町に行った。京都は昔とぜんぜん変わっていなくて、大阪よりも気持ちモワッと湿度を感じた。木屋町の観光客と客引きの入り混じった懐かしの空間を通って、小学校あとの近くの居酒屋に行くと、すでに先輩たちは揃って僕を待っていた。

みんな大学院のときとほとんど変わっていなくて、自分が大学院時代に戻ったような感覚に陥った。下鴨に変えれば僕の下宿があって、昼頃に起きてサンドイッチを買って家でコーヒーを飲みながら論文を読んだり勉強をしたり本を読んだりランニングをしたりしていたことを思い出して、少し感傷的な気持ちになった。

先輩方は各方面でまあざっくりいうとうまいことやっているようだった。みな仕事は楽ではないけれど、やりがいはあるし楽しい、というのを聞いて僕もそうやって働いて行けたらいいと思った。二次会三次会と終電がなくなるまで飲んだあと、先輩の宿のある西院まで一緒にタクシーで移動した。僕は別に西院まで移動する必要がなかったのだけれど、河原町にいたってどうせ居酒屋の飲み放題とかで朝まで過ごすぐらいしかなくてつまらないし、それならもうちょっと話ができるし西院まで行ってもいいやと思ったのだった。

西院は、僕が思っている以上に何もない駅だった。空いているのは駅前のマクドナルドだけ。とりあえず入ってコーヒーと適当なハンバーガーを注文して本を読もうと思ったけれど、全然頭に入ってこないし面白くなかった。それならいっそどっかに移動してしまえと思ってふと渡月橋がみたいなと思った。地図で調べるとだいたい1時間半位かかるらしいが、どうせ他にやることはないしと思って店を出た。

適当にブラブラとあるき続けた。特に記述することはない京都の郊外の殺風景な道が続いたあと、桂川にでて、それを川上に歩いていった。満月ではなかったけれど、6割ぐらいの大きさのある下弦の月が天上に明るく輝いていて、足元はとても明るかった。とても良い風景だった。足はヘトヘトだし、ちょっと酔いが残っているし体はバテバテだったけれど、なにか大きな満たされた感覚を覚えた。今日京都に来てよかったなと思った。

2017/07/12

朝起きると、セミがわんわんと鳴いていて、ジメッとした空気があたりを漂っていて、それはもうまさに夏だった。 前の晩に夜遅くまで本を読んでいたので幾分頭が重たい。

読んでいたのは、囚人が本をよむ会をボランティアで開く女性が主人公で、はじめはあまり本に興味を持っていなかった囚人たちが本を読んでいくに連れてその面白さ、奥深さに気づくと同時に、自分の生きてきた軌跡や人間が生きるということはどういうことなのか、といったことを考え始める、というようなやつだったような気がする。 なにせ私は記憶力が無いので、読んでいるときは夢中でも終わるとすぐに忘れてしまうのである。 今も昨日読みながら書いたメモを見ながらなんとなく思い出しつつ書いている。

  • 贈り物をすること
  • 充実した時間を過ごすこと
  • 体で触れ合うこと
  • 相手のためになる行為をすること
  • 肯定的な言葉をかけること
  • 葡萄, えびちゃ(葡萄茶)
  • 怒りの葡萄
  • 第一次世界停戦戦追悼記念日がアメリカにはあるのに日本には第一次どころか第二次すら無いのはなんでだろう
  • オンタリオ湖
  • トロント, 隣には Ajax
  • アマースト島, Amherst Island
  • サラエボチェリスト
  • 捨て鉢: 望みを失ってどうでもいいと思うこと、自棄糞.

なんだかいろいろなことをメモっているようだが、ぼんやりとしか思い出せない。 メモというのは書いている瞬間の満足感で終わってしまって、ほとんど見返さないしこうやって見返してもあまり思い出せないので、僕にとっては「記憶と思考のアリバイ」程度の意味しか持たない。

昼ごはんにサブウェイのサンドイッチを買っていった。 生ハムとマスカルポーネ。今日はちゃんと発音できた。気がする。今日は外が涼しいのもあって、緊張せずに注文できたからかも知れない。 いつも少し動くだけでとんでもない量の汗を書いてしまうから、それが気になっておちおち注文もできないのだ。 相手からどういう風に思われているのかが気になってしまって、この場をすぐにさりたくなってしまう。多分僕が思っているよりも相手はそんなこと気にしていなくて、むしろ僕がトマトとオニオンを多めに注文したことで頭がいっぱいになっているかもしれない。特に今日の店員さんは新入りだったのか、セサミのパンを切るのもぎこちなかったし、オイルアンドビネガーで頼んだのにバジルソースをかけたり、まあ結構いろいろやらかしていたので多分僕の方を見る余裕なんてなかったに違いない。 それがわかっていても僕は汗をかいてしまう、滝のように。本格的に病気かもしれない。

オフィスに行くと、同期の二人と事務の3人だけが来ていて、上司はまだ出社していなかった。これもいつものことだ。特に気にはしない。 適当に仕事をしながら、昼になるのを待つ。 同期の二人は外に御飯に行くらしい。僕はサンドイッチを買っていたけれど、それについていくことにした。 ちょっと仕事に集中してたのと、前日の夜あまり食べず朝も抜いていたから、お腹が空いて仕方がなくなっていたのだ。 というのは一つの理由で、もう一つはこの三人でご飯を食べるのが僕が好きだからだ。上司と一緒にごはんに行くのも好きだけれど、やっぱり会社での上下関係というのは、御飯の場であってもどうしても意識してしまう。

あともう一つ大事な点は、彼が御飯中にタバコを吸うのが好きではないから。 それに加えて歩きタバコをするし、それをみちばたに捨てるのである。やっぱりこれはどうしても許すことができない。 僕が何も言わないからだと思うけれど、吸ってもいいかという一言すら無いし、あと道に捨てるのはもうどうしようもない。どうしようもない。 今更僕がやめなさいなんていうのも違うし、言ったところで直るとも思えない。直ったとしても僕の前でだけとかだろうし、それは根本的な解決にはなっていない。

別に僕は世の中からすべての悪いことをなくしたいと言っているわけではないし、理想はあるけれどそれは無理なのも知っている。でもそれを目撃して、見なかったふりをすることを強制されることは、どうしても許容できないときがある。ここ最近は特にそうだ。だからできれば彼と一緒に行動したくないのだ。

でも一方で彼の良いところも知っているし、人間を短所だけでダメだと判断することも僕は好きではない。なので現在は悪い面を見ないように、という方針でなんとか僕の精神衛生を保つ作戦に出ている。毎日我慢するのはそれなりに苦痛なのだ。

話がそれた。結局僕は同僚と一緒に御飯を食べに行った。 行きつけの居酒屋のランチ。 店内はとても落ち着いた雰囲気で、周りは近くのオフィスのサラリーマンでごった返している。 いつも頼むのは700円の刺身定食。値段の割になかなかのボリュームで、御飯も美味しい。そして何よりみんなタバコを吸わない。良いご飯である。

会社

今日、朝7時頃に起きてああ今日も会社に行かなくてはだめだと思った瞬間に、とてつもなく会社に行きたくないしまったくもって頭は働かないしもうこれはだめだと思って、会社を休んだ。

「体調不良により本日はお休みさせていただきます」

僕が所属している会社はそれはそれは自由な環境で、基本的に朝は昼までなら何時に来てもいいし、8時間働いたら帰っていいし、休日出勤もない。素晴らしい環境である。しかしその一方で、正社員ではない被雇用者は実力がなければ無慈悲に解雇されるし、残業がないと言ってもやるべきことは降ってくるし、そしてそのやるべきことを自分で作成する必要もある。ぼーっとしていると自分がやる仕事がなくなるのだが、そうやってぼーっとしていると私がやった仕事がないことが判明し、そして私は用無しになってしまうすなわち解雇である。

はじめはこの環境は自由に仕事ができて素晴らしいと思っていたが、仕事の内容が僕が本来想定したこととずれて来ていることや、仕事の内容がとても泥臭くそして僕の頭をかき回すようなものなので(要するに僕がこの仕事が苦手なのだ)、次第に耐えきれなくなっていっているのを感じるのだ。

多分どの会社に行こうとも同じことは起こるのだろうけれど、今の僕には少々つらい。

土曜日

ここのところ数週間、土曜日を一日まるごと睡眠に費やしている。いつもの日よりもちょっと寝てしまったとかではなく、本当にまるごと一日寝ている。今週は、金曜日(というか土曜日)の夜1時ごろに寝て、起きたのは土曜日の21:34だった。ざっと21時間、ぼんやりと眠っている。

睡眠の質もそんなに良くなくて、殆どの時間は寝ているというよりも、ぼんやりと夢のような、考え事のようなことをしている。

普通の人の7分の1の時間を睡眠に費やしているのだから、休日に色々することができなくなり、結果自分がやりたい余暇の活動ができなくなっていっているのは当然のことである。しかしこの睡眠が終わったあとの頭の中の清涼感というか、思考の明瞭さは、平日朝起きたときとは比べ物にならない気持ちよさがあるので、やめられないのだ。

そして起きて珈琲を入れて、ホットケーキを焼く。

人間の条件

題はアーレントから戴いた。

しかし、アーレントの人間の条件は読んだことがない。ふと人間の条件という事が思い立ったからだ。

今日は日曜日だから、どこかに出かけようという話をしていた。しかし僕がうだうだと寝ていたせいで、出かけたのは15:00を過ぎてからだった。とりあえず必要な用事だけを済ませて、本を買った。最近は数学と哲学の本以外の本を買っていなかったし、読んでもいなかったことを思い出して、気になる本を適当に買った。

 太宰と石川淳はいつも通りという感じで、ちょっと気になって買ってみたのはソ連の本と宮台真司の本。やっぱり社会というものがどういう風に成り立っていて、どの制度のときにどのような事象が発生したのか、という観察と考察の記録を欲しているのだろうと思う。最近はこちらの方向に頭をつかう機会があまりなかったから、ちょっとづつでも勉強したいなと思う。

本を買ったあと彼女と二人でご飯を食べた。

普通にご飯を食べて、お酒を飲んで楽しくしていたはずだったのだけれど、いつの間にか僕がその場にいることがとても苦しくなってしまった。それは彼女が不快な発言をしたわけでもなく、場の空気が悪かったからでもなく、純粋に僕が公共の場所にこれ以上居ることがどうしてもできなくなってしまったのである。なんとなく食事をしていることに対する自分の主体性の無さと、時間を浪費しているのではないかという虚無感と、このように思って彼女に迷惑をかけることへの申し訳無さとが相まって、僕にはもうどうしようもなくなっていた。

彼女には申し訳なかったけど、早くに食事を切り上げて僕だけ先に家に帰った。電車に乗っても良かったけれど、なんで僕はこんな行動をしているのかわからなくて、頭を一回冷やしておきたかったから、歩いて帰った。

普通の人が普通にすることができないのは、なんでなのだろう。

電気羊は夢を見るか、にあった人間の条件は相手の気持ちを感じることができるかどうかだったような気がする。僕の場合相手がどう思っているかは、多少は感じ取れる(と思っている)からその点では人間なのだろうけれど、それを行動に移す際にどうしても我慢できないことが発生してしまって、もうどうしようもなくなってしまうことがあるのは、人間の条件に反しているように思える。

 

親密な関係にならない程度で接する、例えば職場の人と仲良くする、というぐらいであったら、我慢して友好的な関係を気づくことはできるし、それは特に苦になったりはしない。でもそれを超えて、極限まで近くに来る人に対して、僕は接し方がわからないのだろう。

ちょっと離れている人だったら、その人がいないすきに色々と発散することができる。そしてその発散のやり方もタイミングも、僕は人生の中で学んでいる。でも一方で、彼女になる、特に結婚をするかどうか、なんてことまで真面目に考えている相手に対して、そうやって表層上の付き合いでは行けないと僕が思っているせいで、気づかないうちにストレスがだんだんと溜まっていて、一定を超えてしまうともうどうしようもなくなる、のかもしれない。そうだとすると僕はありえないぐらい自己中心的であって、僕が相手であったら確実に怒るし怒るですまないかもしれない。

そして「だってそれって、相手に対してとても失礼じゃないですか?」と問うだろう。

そうなのです。とても失礼なんですよねーアハハハ。でもね、そうしかできなかったのですよ。

と泣きながら答えるしかない。

でも泣いたって事は良くならないし、彼女が今日傷ついた事実は変わらない。とりあえず僕に出来ることは、次から同じような事が起こらないように努力するということと、キルフェボンのケーキを買って彼女に謝りに行くということだけだ。

5月

4月が終わった。新社会人となって初めての4月が終わったことになるが、思い返すとたくさんの新しい経験と危機感とを感じ続けた一ヶ月だったように思う。

会社のこと

会社がどういう商売をしていて、どう成り立っているのかは、正直入社するまでちゃんと把握できていなかった。しかし、オフィスが5人も入ればいっぱいいっぱいなただの賃貸住宅で、従業員が片手に満たず社長にとても近しいところにいると、嫌がおうでも色んな話が耳に入ってくる。そうやって、段々と会社の輪郭を掴んでいった一ヶ月であった。

悪い会社ではないと思うけれど、突飛な会社でもないし、まあ言ってしまえば普通の中小企業であった。やっている仕事がちょっと新しいことであるというのはあれど、会社がやらなくてはならないことは、どこも対してかわらないんだなという印象を受けた。

それは、結局のところ会社に利益を残しつつ、従業員に給与を払いつつ、自分たちの給与を捻出する、ということである。至極当たり前のことであるが、大きい会社にいると多分このあたりが曖昧になってしまうのだろうと思う。細分化されたセクションをやっていれば、そういった事務的なこと、運営のことには気を配らなくても良いからである。それってサラリーマンなのだから、考えなくてもいいでしょという発想もありだとは思うが、僕としてはそれは思考停止なような気がしているので、今のいわば厳し目の環境は、刺激がたっぷりで楽しいと思うときもあるし、ちょっとしんどいなと言うときもある。

仕事のこと

インターンで1ヶ月弱会社に入って仕事をしたことは会ったけれど、ほとんどアルバイトに毛が生えたようなことしかしていなかった。ゆえに先月からの仕事は初めて仕事っぽい仕事であるといえる。

わかったことはたくさんあるけれど、一番大きい発見は「自分は何も知らない」ということだった。言い換えれば、無知であり無能である、という私を発見した。学生時代はたくさん勉強をしたつもりだし、たくさん本も読んだと自負していたところがあって、それなりに戦えるのではと思っていた。いざ仕事が始まってみると、周りで話している内容が全く意味がわからないことが多くあり、唖然とした。それはマーケティングの用語であったり、インフラ周りのIT用語であったり、コンサル会社が言ってそうな要件定義周りの用語であったりと、多岐にわたる。彼らは、当たり前のようにそういう用語を用いて話をしていて、もはや私と別の言語を喋っているかのようであった。「そのうち分かるようになるから安心して」とは言われるものの、やはり知らないことが目の前に転がっている状況は、なかなか精神衛生上よろしくないところがある。私はかなり動揺した。

と同時に、新しい勉強すべき領域を定義してくれて、ありがたかったという面もある。ここ一ヶ月、機械学習周りの勉強はそこそこであったけれど、一方でデータベースだったり、マーケティングだったりの概念は、かなり勉強できたのではないかと思う。いろんなことを学んで広い領域の人と話をしていくことが、僕のやりたいことの一つでもある。

平日の休日

今日は平日であるが、休日である。休日となったのは、私が日曜日に仕事をしたからであって、休みの取れるうちに休みはとれという上司の意見からでもあった。

平日にやすむとなると、なんとなくうれしい一方で、周りは働いているのに自分だけ休むのもなぁとちょっと気が引ける気分にもなる。とはいえ休みはもらったのだから休むのであるけれど。

家でだらだらしていても良かったのだけれど、普通の休日ではできないことを、ということでちょっと美術館に行ってみた。家から歩いて大体30分ぐらいのところにあって、前に行ったときに常設展にあった一枚の絵がとても気に入っていて、もうもう一回見たいと思っていた。休日は人がいっぱいであろうから、平日に行きたいと長らく思っていた。

現地につくと、特別展の案内とともに、常設展はお休みである旨がかかれていた。完全にやられてしまった。そのまま帰っても良かったのだけれど、なんだか癪なので、2000円近く払って特別展を見た。西洋絵画の展示であった。私は西洋画にはあまり明るくないし、あまりいいとも思えないので、さらさらっと見て1時間も経たないうちに見終わってしまった。一番いいと思ったのは、フィーチャーされていた画家の絵をモチーフにピカソが描いた絵であった。ピカソは偉大である。