The sun rises again.

フィクション

生きる目的

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昨日は久しぶりに高校の同期と飲み会であった。グランフロント大阪の地下にある世界のビール博物館で、麦酒の飲み放題コースが5000円からあると聞いて、一杯やろうという話になったのである。普通に頼むと一杯1000円近くする麦酒が飲み放題となるのだから、これは飲む人間にとってもとても都合がいい。皆ですべての麦酒を飲み干そうと躍起になり、そしてことごとく私は泥酔したのであった。

彼らとの付き合いもかれこれ長い。中高一貫であることに加えて、小学校の時から面識があるので、下手をすると20年来の付き合いになるのかもしれない。

これほど長い付き合いになると、どうしても加減と言うか、普通の友達に対しては言えないこともわんさか言うようになる。こう思っているのはこちら側だけかもしれないが、とりあえず私は彼らに対して言いたいことを言いたいときに言っているし、それで今後の付き合いが変わるとも思っていない。安心しきっているのである。結局彼らに対して甘えているのだろう。

無論そうやってこちらが適当に言っているがごとく、彼らも私に対して思っていることを率直に言ってくれる。

今回集まった中のひとりが、二股をしているという話になった。彼は、好きな人がいて付き合っているのにもかかわらず、成り行きで事をやってしまった挙句、告白されて断りきれず二股ということになっているようであった。泥酔した私は、これが相手にとって不誠実であると糾弾した。相手は君が自分を好きだと思って付き合っているのに、それに答えないのはどういうことか。君が相手を手玉に取っているのは、情報の非対称を利用した姑息な行為であり、断固許されるべきではない。このように言ったように思う。

しかし、泥酔の勢いに任せてこういったものの、自分が同じ立場になったとしたら、断れるのかは微妙な問題であるようにも思われる。第一私はモテないので、自分で選ぶような立場に居合わせることが無いのである。もし、自分がモテているとすれば、その立場を最大限に利用して、相手を手玉に取るような行為をするかもしれない。それは私の哲学、というと言い過ぎだが、私が生きる上で大事にしている考え方に、ひどく反するものであるけれど、実際にそういう立場に立たないとわからないことというのも、世の中には存在するのだと言うことぐらいは、わかっているつもりである。

その後とりとめない話をし、最後に彼は私に「君は生きる上で自分の利益を全然考えていない。君が思う理想が実現することや世の中が良くなればいいということばかりを考えているので、周りにいる人は大変であろう」ということを述べた。いわく、彼ともう一人は、結局のところ自己利益最大化を目的として生きている、とのことであった。これは私にとって意外に思われた。なぜならば、私は言われるまでもなく、自己利益などはなから考えてはいないし、皆も漠然とそう考えているのだろうと信じて疑わなかったからだ。

確かに、言われてみればそのとおりである。生きる上では、他人は競うべき相手であり、自分が大切にする者を守るためには、自己利益を追い求める必要がある。

その点で、私はちょっと変わっている。自己利益を追い求めることに対して価値を見出していない。それは今までの人生で、自分がなにかを他者から奪われることによって、悲しい思いをすることなく、のうのうと生きてきたことが原因であろう。奪われた経験が無いから、他の人を押しのけて自分が良くなろうということを考えない。しかしこの考え方では、厳しい世の中では生きていけないということぐらいは、私にだって想像がつく。しかし想像と、経験とを天秤にかけたとき、私はどうしても人間の良い面、言い換えると性善説にすがりたくなる。悪くなりたくて悪くなる人はいないのだ。そう信じている。

そして、世の中の人達は私のように考えていない、それは私の大事な、そして親しい友人たちにおいても同様であったことに、改めて気付かされた。それだから、私の考えがどうこうするわけではないけれど、しかし、同じ考えの人があまりいないというのは、些か悲しいものである。

我が家にて

私はこの3月が終わると社会人一年生として、世の中でやっていくことになっていて、学生としての休みはこれが最後である。周りをfacebook等で見渡すと皆沖縄だの北海道だの海外だのに旅行に行っていて、最後の学生としての休み、言い換えれば何も考えずに休める最後の期間を愉しんでいるようである。

一方私がやったことといえば、新居に置く家具を新調したことぐらいである。

家具の新調も楽しいものである。値段とクオリティから、今回はikeaで家具を買うことに決めた。ikeaの広い店内でかっこいい家具を見て回るだけでも楽しいのに、自分で買ってそれを家におけるとなると、ただ見て回る以上の楽しみがある。その場にあるかっこいい家具が自分の家に置けるという事実に、喜びが倍増する。

私の家はキッチンとダイニングが一緒になった5畳ほどの部屋と、ベットとデスクがおいてある7畳ほどのリビング兼寝室のある、ちょっと広いがただの1Kである。

当然賃貸物件であり、壁をぶち抜いたり床を張り替えたりシステムキッチンにしたりみたいな、たいそれたことはできない。出来ることといえばソファを買うかどうかだったり、ダイニングテーブルを置くかどうかだったり、テレビの場所をどこにするかだったりといった、限られたことになる。

しかしせっかく社会人としてやっていくスタートだから、よくある一人暮らしっぽい家具ではつまらない。

そう思い、すこし頑張ってカウンター型のアイランドキッチンを購入した。高さは1m弱あり、ダイニングテーブルというよりはバーカウンターの高さに近い。天板はきれいな木目の大きな天然木でできており、片側には表面がステンレスになった二段の棚が設置されている。ikeaの店内でディスプレイされているのを見て一目惚れしてしまい、予算はオーバーしていたがその場で買うことを決めた。

あとは壁一面の本棚。

本棚に関しては前の家に住んでいた頃からの憧れであった。我が家には、本棚に収まりきらず床に散らばった本があまりにも多いのである。床に投げ捨てておくのは、本を書いた作者に申し訳が立たないし、そもそも格好が悪い。綺麗に収納できる本棚を、それも壁一面に床から天井までびしっと揃えてやるのは、私の夢であり目標であった。

そうやって気に入った家具を買い、一日かけて組み立て場所を考えて出来上がったダイニングはどこから見ても完璧で、そしてとても素敵であった。

新卒で住む家にしてはいささかやりすぎたというかカッコつけすぎた感じも否めないが、かっこいいのは事実であって、そしてここに住むことがとても素晴らしいことであるように思われた。

本を読んでいても、パソコンをいじっていても、料理をしていても、コーヒーを飲んでいても、前よりもワクワクする。これが自分が住む場所を選べる嬉しさなのかと一日一日噛み締めていた。

 

そうやって何日かが過ぎて、城崎温泉に旅行にいくことになった。

学生最後だからと奮発していつもは絶対に泊まらないような高級旅館を予約した。旅館につくと部屋に案内する人がいて晩御飯の時間を聞いたり、観光の情報を教えてくれたりと、いつもとまる素泊まり3000円の宿とは違うサービスに、どこか落ち着かない気分であった。食事は部屋で、ご飯も大変に豪華であり、カニの最後のシーズンであることもあり溢れんばかりのかに料理と、丹波牛のステーキ、しゃぶしゃぶが振る舞われた。そうしてたらふく晩御飯を食べ、温泉に入り城崎を満喫して就寝したとき、この豪奢にあまり喜んでいない私を発見した。

美味しいご飯が悪いわけではない、くまなく給仕してくれる人が悪いのではない、柑橘の浮いたいい匂いのする温泉が悪いのではない。

ただ、私にはこれは過度なのである。これほどまでは、求めていない。

この生活を続けていけば何時かは慣れて、この生活が楽しいと思える日がくるのかもしれない。しかしそうやって慣れることに現在の慣れていない私は価値を感じないし、別に慣れようとも思わないのであった。金銭の問題ではなく、ただ一人の人間として、これだけのサービスを受けることは、ちょっとやりすぎてねえか、と思うのである。一人でやれることは、一人でやりたいし、無理なことはお願いするかもしれない。でも出来る限り、自分でやりたいしそうするほうが健康的ではないだろうか。これもまた貧乏性ゆえかも知れないが。

私の感性は城崎ではなく大阪の我が家にあり、我が家でのんびり本を読み仕事をする方が落ち着くのであった。確かにたまに上の階の人はどしどしと歩くからうるさいし、温泉にも入れない、料理も勝手に出てこないし、洗い物はやらなければ貯まる一方だ。それでも私は、私が買うことが出来る程度の、私が気に入ったものがおいてある、我が家が好きなのであった。

城崎から帰る特急電車こうのとりで麦酒を飲みながら、そんなことを考えていた。

区切り

先日、大学院の卒業式があった。本当はこの手の行事物はあまり参加したくはないのだ。節目が来たからと言って、特に新しく私ができることが増えたわけでも何でもないし、時間と移動する体力を奪われてしんどいだけだ。

しかし母親が実家からわざわざ出てきて卒業式を見たいと言っていたので、私一人の我儘で、出席しないわけにもいかない。

また一方で、修士論文の内容があまりにお粗末だったため、本当に卒業しているのかどうかが不安になってしょうがなかったというのもあった。成績証明等を見ているので、卒業ができていることはわかっていたのだけれど、どうにも実感がわかなかった。あんなふうな生活をしていて、卒業ができるわけがないという、自分への不信感が募ってしょうがなかった。

卒業式自体は至って形式的に行われた。卒業証書授与が、すべての学科に対して、修士、博士、論文提出による博士の3通りの人たちの代表者に対して行われたため、卒業証書授与が延々1時間ほど続いたのには閉口したが、他は特に特筆すべきこともなかった。私の学科の代表者が、名前を呼ばれたときに低音の大声で返事をするという、なんとも微妙な茶目っ気を出していたが、完全に滑っていて悲しかった。

卒業式では、私のような一般修士学生は証書はもらえない。ここの学科ごとに行われる卒業証書授与式において、初めて貰うことができる。このことに、私は卒業式が終わって初めて気がついた。最初は卒業式が終われば、もらえるものだと思い込んでいたのだった。2千人からいるすべての人に渡せるはずがないことぐらい、少し考えたらわかりそうなものだが、おそらく証書がもらえるのか否か、言い換えれば卒業ができるのかどうかが気になってしょうがなかったためであろう。

式が終わったのは4時前で、授与式は4時半から行われる。問題は卒業式が終わったあとに、ララランドを見に行く約束をしていてすでにチケットも購入済みであったということだ。映画が始まるのは5時過ぎで、どう見積もっても5時に授与式が終わるとは考えられないため、授与式に出てしまうとララランドのチケット代それも二人分の3000円が無駄になってしまう。

授与式は参加は必須ではなく、後日取りに来ることも可能であるので、3000円を無駄にしないという選択もあったが、悩んだ結果授与式に出ることにして、相手にはその旨を伝えることにした。私はやはり、卒業できるかどうかが、不安で仕方がなかった。卒業しましたという文書が手元にくるまでは、卒業できたと思えなかった。

結果がわかってしまっている今考えると、ララランドに行って感想でも書きたかったなと思うのだが、まあそれは結果がわかった今だから言えることであって、そのときは卒業で必死だった。もう修士論文も、授業も、事務手続きも全部終わっているというのに。

授与式では、博士を得る人たちは前に一人づつ呼ばれて、博士の授与がありその後に修士は各々の専攻に分かれて、一人づつ前に呼ばれて専攻長から書類を受取、受け取った旨をサインするという、とても事務的な手続きによって渡されることになった。私の専攻の専攻長は、ちょうど私の所属していた研究室の教授であるから、修論で大変大変お世話になった先生から、物理的にも修士号をいただくという形であった。私の勝手な思い込みかも知れないが、受け取る際に先生はおめでとうとは言ってくれたが、本心からそう言っているようには思われなかった。どこか薄ら笑いというか、こいつに修士号をあげるのかという雰囲気が漂っていた。わかってはいる、わかってはいるのです。これが私の妄想であることは。おそらく先生は本心で、そう言ってくれているのです。良い先生なのです。間違っているのは、努力をしていないということがわかっている私の心の方なのです。私の心の醜さを、彼に押し付けているだけなのです。

辛いこともたくさん思い出された。しかし今日ぐらいは、このお情けによって頂いたもので、安心させていただきたいと存じます。

結婚式

先日人生で初めての結婚式に出席した。

結婚するのは、今度働くことになる会社の社長さんである。今まで結婚式に参加したことがなかったので、誘われたときには、ついに結婚式に出られる、という興奮で即是に参加します旨を伝えたのであったが、日にちが迫ってくると色々な準備に追われることになった。まずどういう格好をしていいのかがわからない。ご祝儀はいくらぐらい入れればよいのか、祝儀袋はどこで買えばよいのか、靴はどれで行けばよいのか、コートを着ていってもよいのか、などなど。結婚式とか葬式のようにフォーマットが決まっているものは、最初に参加する人が必ず困るのだから、学校で教えてほしかったなと思いながら、インターネットを使って見よう見まねで、失礼にならない格好、形式を準備する事になった。

著物は就活のときに使っていた黒い目のスーツでごまかすことにして、一番困ったのが祝儀袋である。だた入れ物を買って中にお金を入れれば良いと思っていたが、どうやら自分の名前と入っている金額とを書かなくてはならないらしい。しかもお金は新札であるのが望ましいとある。これに気がついたのは土曜日の夕方であって、銀行はどこも空いておらず、そして手元には新札なんぞ一枚もなかった。手元にある現金の中で一番綺麗だったのが、両親から先日ご祝儀として頂戴した修了祝金であった。その中から、適当に奇麗そうなものを数枚抜き出し、アイロンでスチームを全力にして伸ばして、新札に偽造することにした。お札をアイロンしたのはこれが人生で初めてであし、そもそも別の人からのご祝儀をそのまま流用するのも如何なものかと思われたが、他の方法が無いのであるから仕方がない。元はといえば、平日に準備を開始して銀行に行かなかった私が悪いのである。諸悪の根源は私の怠惰である。

つぎに祝儀袋を用意しなくてはならない。コンビニに行けばあるだろうと思い近くのファミリーマートにいくと、案の定文房具のコーナーのはずれに置いてあった。怠惰な人間にとって、大変便利な世界である。祝儀袋と、筆ペンとを買い求めて、見よう見まねで、住所と「金参萬園」と書いた。なれない「萬」の字がきれいに書けたと思っていたら、油断したのか、自分の名前がとてつもなく下手くそになってしまった。しかしもう書き直すことはできない。表に見えるのは、ヘッタクソな名前の部分であって、比較的きれいに書けた金額の部分ではないのだ。全くもって格好がつかないが、かえって結婚式が初めてであることの象徴であるようにも思われた。

結婚式当日。シャツのシワが気になって改めてアイロンをかけたり、スーツのホコリが気になってガムテープでホコリをとったり、靴の汚れが気になって磨き直したりしていたら、余裕のはずの電車の時間に危うく遅れるところであった。最寄り駅まで走って事なきを得たが、次回は前日にアイロンをかけ、ホコリを払い、靴を磨こうと思った。
式の開始時刻直前に会場に付き、受付をする。新婦の関係者であろうか、美しい女性が受付をしてくれた。この人にダサい祝儀袋を出すのがとても恥ずかしかった。その格好悪い祝儀袋を見た上司が、祝儀袋は百貨店で買えるしそこで代筆もしてくれるよと教えてくれた。そんなことインターネットにはどこにも乗っていなかった。おそらく自分でかいたださい祝儀袋を出したのは、私一人であろう。Googleに騙されたと、僕は思った。次回は大丸で祝儀袋を買おうと思った。

結婚式はとても良いものであった。式場に現れた新郎は白いスーツがとてもかっこよく、凛々しかった。新婦は、綺麗なドレスを身にまといそして艶やかであった。お二人とも奇麗でそして幸せそうに見えた。
私は特に今までどちらの方とも深い付き合いをしているわけではない、ただ来年からお世話になる一端の平社員として呼ばれて居る。いわばほとんど他人枠での参加で合ったけれど、幸せな人達を見ているのはとても嬉しいことであった。二人が末永く幸せになって欲しいと、本当に思った。対それたことは私にはできないけれど、こういう幸せがたくさんある世界であって欲しいと、少々気障なことを思ったりもした。そうして私は披露宴で、尽く泥酔したのであった。

 

幸せなことは素晴らしいことである!!!!


George Winston / The Venice Dreamer: Part Two

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ホワイトデーのお返しをしなくてはならない。そう気がついたのは、すでにホワイトデーがとっくに過ぎた3月半ばであった。そもそも、バレンタインデーとか、ホワイトデーとか、ハロウイーンといった行事に対して、あまり関わりのない人生であったため、日付を覚えていないのである。クリスマスとかろうじて私の誕生日を覚えている程度であって、もっというと自分の誕生日も数回間違えたことがあり、一度銀行で本人確認の際に間違えた時には、日付が2日、年号が2年違っており、口座が危うく凍結されかけた。

今お付き合いしている彼女は、それこそ世の中的には普通の女の子であるから、そういう記念日だったり、行事ごとに何かしたいし、してほしいと思うタイプのようである。であるから、私が二人が付き合うことになった日にちを忘れていたり、自分の誕生日であることに、彼女に言われるまで気が付かなかったりすると、とても不機嫌になる。私が逆の立場で、そういった記念日を大事にしていて、相手がそれに対して全く頓着しないようであったなら、当然不機嫌になるであろうから、彼女の気持ちはとても良くわかる。もう少し気を使ってくれても良いのに、もっというと、自分を大事にしてくれているのであれば自分がそういう区切りを大事にしているのだから、相手にもそれを大事にしてほしい、ということであろう。尤もな意見である。

ホワイトデーがもう過ぎたことはSNSを見て気がついた。よりにもよって、彼女がホワイトデーに何もなかったことを不満に漏らした投稿を目にしてしまったのである。この時点で私は、ホワイトデーにたいしてホワイトデーじみた、何らかの行動を起こす必要に迫られた。相手への思いがあり、またホワイトデーが在るということに気がついてしまった以上、避けることができない。

実を言うとそれまでも既に、クリスマスにもプレゼントを貰い、誕生日にもプレゼントをもらい、バレンタインデーにもケーキを貰っている状態であった。また、こちらが何かを買ってあげようと思っても、今は欲しいものがない、と一蹴され何も返すことができていないので、現時点で彼女に対して3回分の借りがある。よって今回私は3回分に相当するものを渡さなければならないことになる。

普通ならバレンタインデーにもらうものがお菓子であるから、お菓子を返すのが筋であろうが、今回の状況ではどれだけ高級なチョコレートを送ったとしても駄目であろう。そうなるとものを送ることになるが、残念ながら私には女性になにか贈り物をした経験が無いし、雑誌その他でどういうものが女性に好まれるかを読んだり調べたりしたこともない。何か贈らなくては、という思いはあるのに贈るものがわからない。

しようがないので、とりあえず大丸に行ってみた。とりあえず知識のない私でもなんとなくアクセサリーならばいいのではないかと思い、いつもは行かない、3階にあるアクセサリー売り場に行った。数々の有名ブランドが軒を連ね、そこにいる店員はほぼ100%女性で、なんとも言えない笑顔を振りまいている。正直この時点で家に帰ろうと思った。慣れない場所にいることとそしてブランドとお姉さん方の威圧に、やられてしまったのである。

気が動転しておかしくなってしまいそうだったので、一端エスカレーターで上まで上がって書店に入り、読みもしない本を物色しつつ、心を落ち着けた。 買わずに帰っても、どうせ何を贈るかで煩悶とするのだから、と覚悟を淹れて、再び3階にもどる。ブランドもよくわからないが「ティファニーで朝食を」という映画が面白かったのを思い出して、フロアの中でも威圧的に存在するティファニーのブースに入った。はいると足元は異様にふわふわした絨毯が敷き詰められ、壁にはティファニーで朝食をオードリー・ヘップバーンの肖像がが飾られ、なんとも言えない笑顔のお姉さんたちが出迎える。ここでやられてしまっては駄目なのだ、私には使命がある、やらねばならない。そう言い聞かせて、お姉さんに話しかけた。

予算のことか、誰に贈るのかとか、誕生日プレゼントかどうかとか、いろいろ聞かれたような気がするが、よく覚えていない。予算以外に関しては動揺しすぎていて、ほとんどでまかせ、嘘ばかり言っていたような気がする。本当のことを喋るより、空想のことを喋るほうが、喋りやすいことは、ままある。私は服屋で自分の素性を聞かれた時にも、同様に嘘ばかりついてしまう。

あとは、渡すタイミングでホワイトデーを過ぎてしまったことを詫びる、という仕事が残っている。女性にプレゼントと渡すというのは大変な重労働である。

「京都から離れるの。寂しいものですね。」

「はあ。」

「今度はどこに行かはるんですか?」

「大阪です。」

「大阪!東京京都ときて今度は大阪ですか!いろいろ行かはりますね。次は北海道かな?」

「はは。ことによると沖縄かもしれません。」

「でもあれですねえ。大阪なら、京都もすぐ来れますね。また遊びに来てくださいね。いつか会える日を楽しみにしています、というとなんだか、今生の別れみたいで変ですね。」

「はあ。」

「ではまた。」

私は当たり障りない話が苦手である。

進行よし

久しぶりに香川に居る母方の祖父母の家に行った。仲が悪いというわけではないのだが、ただ物理的に香川が遠いという理由によって、あまり顔を見せる機会がなかったので、就職という節目で一回会いに行ったらどうか、という話になった。

松山から特急しおかぜに乗って香川坂出に向かう。この特急は岡山に行くしおかぜと、高松に行くいしづちが途中まで連結された状態で運行され、多度津で香川の駅で岡山行きの車両と、高松行きの車両が切り離されるという仕組みになっている。高松行きの先頭八から五号車はどこかと松山駅ホームで探しながら、小さい頃にドキドキしながら特急しおかぜに乗ったのを思い出していた。あの頃は電車に乗るのだけで一大事である。しかも特急であるから、興奮度合いも尋常のものではない。両親の可愛い子には旅をさせよの精神かなにかによって、幼い弟と二人で電車にのった私と弟は、なれぬ電車と未知の坂出の祖父母宅を目指して、大航海時代の海賊のように意気揚々と、そしてどこかに母親の元を離れるという悲しみ寂しさをいだきながら、電車の車窓を眺めていた。

私にはもうそのような感覚を味わうことは、こうやって過去を思い出す以外には、不可能となった。もう24才なのである。坂出駅について、久しぶりにあった祖父母はなんだか、小さくなったように思われた。大きくなった、と言われたけれど、私には、彼らが縮んだように思われた。

車で祖父母の家まで移動し、雑多な話をする。私がもう働くということを見据えてなのか、今までにはしなかったであろう話を、たくさんしてくれた。お見合いのこと、その時の縁のこと、仕事をするということ、年をとるということ。そうとは言わなかったが、彼らの生きることに対する哲学、考えていること、その一端を私に対して公開しても良いと、そう思われていることをひしひしと感じた。もうこの孫は、子供扱いしなくても良いのだ、そういう意図を感じた。

一方の私はどうか。残念ながら、それに応えられるだけの、能力そして覚悟を持ち合わせているとは、到底思えない。やっていることは、自分がやりたいと思っていることを、だたのんべんだらりとやっているだけである。生きるということに対する、覚悟がないのである。事実、これからどうなるのかということに対して、私は適当なことを述べることはできるが、本心からどう思ってるかを述べることは、できないのである。それは考えていないからである、考えることから、逃げているからである。

私には、祖父母のその認めてもらえているという思いには、とてもうれしいと思う一方で、その期待には答えられそうにない私の意気地なしの心に対して、申し訳なく思うのである。一言私は、あなた方が思っているような人間ではないのです、と言ってしまおうかとも思われるような、そんな心地であったが、それを言ってしまえば私が楽になり、彼らは落胆するであろうことは、目に見えているので、言わなかった。こうやって私は、段々と自分の気持ちを打ち明けることができる場を、失っていくのであろう。

坂出を出て、岡山へと向かう電車で、私は先頭車両に乗った。運転手は新人のようで、隣には指導教官と思われる人が、つきっきりで指導をしていた。「進行よし」「進行よし」。気分のいい声が、一枚壁を隔てている客室へも響く。私は、電車に乗りたくて、また運転したくてたまらなかった小学校の時分を思い出しながら、新人車掌の一挙手一投足に、見入っていた。