The sun rises again.

フィクション

学びについて 2

2017年2月25日、晴れ。

前日に高校の同期とたらふく飲んで、食べて、そして気づいたら私はベットで、彼はこたつで寝ていた。部屋の立派さは変わったけれど、やっていることは学部の2,3年の頃と何も変わっていないことを発見して、彼とは年をとってもこうやってゴロゴロとだらしなくしていても問題ない関係で有りたいなぁと思った。
夕方ごろまで珈琲を飲んだり、飯を食べに行ったり、本を読みながらサッカーを見たりする。模範的土曜日。やはり土曜日はこういうだらしない感じで無くてはならない。日曜日はどうしても次の日の月曜日のことが頭をよぎるし、金曜日はパーッと遊ぶためにあるので、こういうだらしなさは土曜日でないと出せないものがある。彼の寮の近くの喫茶店について話をきく。彼は土日なると、その喫茶店によく行くようで、店がまえは喫茶店、というよりサテンといった様相の昭和の匂いが色濃く残る店で、客層は近所のおばさんおじさん連中のみのなかなかディープな店らしい。
京都にいた頃も、近くにそういうサテンは何個か会ったけれど、結局ビビって一回も中に入れなかった私としては、彼がそういうところに入り浸っていることがとても不思議であるし、少しうらやましくも感じる。それは私の知らない世界を知っているということでもあるし、できないことを淡々とやってしまうその精神の構成も気になるからである。一度連れて行って貰いたい。

夜は、大学院の一つ上の先輩二人と飲み会。毎回この二人と飲み会をすると、延々と真面目な話をして盛り上がるので、頗る楽しい。

一つ目は[親の年収と子供の学力は相関にあるのか因果にあるのか]という問題。
私は因果であるといい、二人は相関であると言って議論となった。
私からすると、親の年収が違うということは、当然親が子供に対してする教育のレベルも上がるであろうと考える。
もっというと、子供の周りの環境が[勉強をしていても変に言わない人が多い]環境になる確率も、年収によって変化するであろうと思われ、そういったことから、子供の能力にプラスして親の年収レベルで、最終的な子供の学力が決定するのではないか、というモデルを提案した。
一方で、彼らはたとえ年収が高いからと言って、必ずしも子供が賢くなるわけではない。その例外も多数存在している(自分もその一例だと彼は述べた)上に、無限の富があったとしても、子供の学力が決定するわけではないだろうと反論した。
確かに彼の言うところの[必ず学力が上がるか]ということに関していえばNoだろうと思うし、私もそこまで強い関係性を提案しているわけではない。それよりも[学力が上がる確率が上がる]というようなことを言いたかったのであって、この点に関しては[因果]という言葉をどういう風に解釈しているかが、彼らと私で異なっていたことが原因ではなかろうか、と推察される。
一日経った上で考えてみれば、具体例として[タバコを吸うと肺がんになるリスクが2倍になる]と言うようなことを因果と捉えて、それと同様に[親の年収によって子供の学力が上がる確率が2倍になる]と言うようなモデル提案をすればよかったのかもしれない、と反省をしている。

二つ目は[思考力とは何か]という問題。
数学の教材のコラムに、[数学の思考力を鍛えられるような事柄について執筆してください]と頼まれて、ふと思考力とは何なのだろうか、と思ったことが発端で、色々と先輩なりに考えて見たけれど、我々にも意見を聞きたい、ということだった。
私の考えをはじめに述べると、思考力とは問題を[読み解く]能力であると思っている。
すなわち、問題を正確に読み取って、まず問題の仮定と示さなければならない出力を判定して、その上で仮定と出力が自分が見たことがある解法に照らし合わせて何が用いられるのか、そもそも自分にはこれは扱えないのか、などを判定する、これを読み解く、と表現した。
であるから、数学の思考力、と言うのは結局のところ国語ができるかどうか、であると思っていて、日本語を使わないで数学という言語上で、国語ができるのかを見ている、と解釈していた。
もう一人の先輩は、思考力、という言葉自体が分解可能な複合的な概念であると述べた。
問題を解くという行為は、問題という具体例から、理論という抽象への射影、理論から理論への射影、そして理論から具体への射影を駆使して行われるので、思考力と言うのはこの射影をいかに使えるか、ということを表しており、結局抽象化する能力、抽象の世界を把握する力、そして抽象から具体へと落とし込む力、この複合的な概念として、思考力が存在する、と述べた。
質問をした先輩は、思考力とはリンクを貼る力であると考えていると述べた。ある概念と別の事柄を関連付けて考えることができる力、これを思考力と言う、ということである。この考え方は結局問題を解釈することだ、と言っている私の考えも含むことができるし、先輩のいう射影という表現もリンク、という別の言葉で表現しているにすぎず極めて似た概念である。
したがって、結局のところこの[リンクを張る]ということが一番しっくり来るようであった。面白いのは3人いても、みんなが皆似たような結論に行き着いているということである。まあこれは、3人共が大学院の同じ研究室という極めて同質の人間が集まりやすい環境の中の3人であったからなのかもしれないが。

他にも抽象と具体とどちらが最初に物事を教えるときに良い方法か、とかまあ色々と聞いた。忘れてしまったけれど。
それよりも大事なことがあって、それは先輩の一人が結婚することが決まったのだ!子供が10月に生まれる予定らしい。とてもめでたい。めでたい。
私の個人的解釈で言うと、彼は結婚をするかもしれないと言っていた彼女がいて、彼女も結婚することがやぶさかでないのに、結婚をすると可能性が縮まってしまうことがネックになって結婚をしないでいるようであった。私としては、早く結婚すればいいのに!とずっと思っていたので、今回の知らせはとても個人的にも良いことであろうなと思っている。

学ぶということ

昨日は彼女の研究室の先生と、学生と飲み会。先生がとても飲む人だと聞いていて僕を潰すつもりでいるというのを聞いていてビビっていたけれど、気づいたら僕の方から楽しくなって、ぐいぐいと飲んでしまっていた。やはり楽しくなると、限度とかそういうものを気にしないで、無限に飲んでしまう。いつもは飲まない日本酒も、ビールも、焼酎も、延々と飲んでしまって、最後は女子トイレで寝ていた。

研究室でこんど修士になるという女の子の話を聞いていたら、彼女はちょっと苦労をして大学に来ているらしい。勉強をすることを良しとしない環境にいると、勉強をしているだけで馬鹿にされたり、仲間はずれにされたりするというのを聞いていると、自分がかくも恵まれた勉強をする環境にいるんだなということを改めて感じると同時に、彼女と同じような環境にあって、そして勉強をあきらめてしまう人がたくさんいるんだろうなと思うと、とても悲しくなる。
飲むとすぐそういう話をして泣くんだよね、とは聞いていたけれど、でもあれは泣いてしまってもしょうがないというか、僕はああいう純粋な勉強をしたいという気持ちを持っていて、それが叶えられたことが嬉しいんだという気持ちから、泣いてしまうことの美しさというか、純なる気持ちに圧倒されてしまった。

今日は昼まで寝て、パスタを食べ、公園で壁当てをしていたら、謎の爺さんがはなしかけてきた。そして僕からボールを奪って、壁に2回続けてボールを投げた。彼は今年80歳になるおじいさんで、毎日運動をしていて、とても元気良さそうな人だった。大阪は怖いところだ。

がまん

最近我慢が全くできなくなっていることに私は気がついた。晩御飯を作りながらつまみ食いは当たり前。やるべきことをほっておいてやりたいことばかりする。人と会う予定を立てれば予定の当日になるととたんに会いたくなくなって、気がついているのにもかかわらず「あ忘れていた。」とすっぽかす。どうにも自分がやりたいことしか、やれなくなってしまっているようだ。これは、要するに幼稚園児と同じであって、即ち僕には、大人としての価値がない。

やりたいことばかりやってきた人生だった。部活も、勉強も、大学も、恋人も。就活だってそうだった。やりたいように、ただ自分が楽なように。問題なのは、どこかで決定的な破綻は起こらなかった、ということに尽きる。自分が楽なようにやった結果、普通は痛い目を見るのだろう。そしてそこから、頑張っていくのだろう。それが人間というものであるし、一回落ちて、落ちたところから人間として、自分がどういう存在なのかを、見つめなくてはならない。

その作業はとってもしんどいはずだ。自分が間違っているところ、誤っているところを、精査しなくてはならない。そしてやめようと思ったって、なかなか直るようなものでもない。「ああこういうところが駄目なんだよ」と思いなが同じ間違いをするのだろう。でもそこで諦めずに再び生きるのだろう。それが美しい、人間のあり方だ。

本質に蓋をして、ヘラヘラしている人間は、美しくない。醜悪だ。

自分に対しても本当のことが言えないのに、人に対して誠実であることが、果たしてできるだろうか。自分との対話ですら嘘をつく人間が信用できるだろうか。

うそつき

また一つ、嘘をついてしまった。今日は京都マラソンがあって、それに僕は参加する予定だったのだ。しかし、直前になって、どうでも良くなってしまった。別に43キロ弱を走ることに、なんの意味があるのだろうか。みんな馬鹿みたいに朝っぱらから集合して、幹線道路を貸し切って昼間で走って、ああよかったね、というだけのことだ。これの何が楽しいのか、皆目検討がつかなくなってしまったのである。

確かにそれに応募したのは、間違いなく自分であって、だから彼女にもこんどマラソン走るんですよということを言っていて、見に来てくれると彼女は言ってくれていた。そして、ああ僕は、嘘をついた。[風邪を引いた]のではないのだ。僕は[走る気力がなくなった]のだった。走る気力がないというのも、広義の体調不良とも言えなくもないが。しかしそれは一般に言えば[どうにかなること]であって、今回の僕の判断は[自分勝手な判断]ということになるだろう。そのぐらいはわかっている。

多分走ろうと思えば、走れるのだろうと思う。数か月前から、一週間のうち少なくとも4日は10キロほどを走り込むようにしていたし、最長でも20キロは走ったことがある。いいやこういうスペック上の[走れる]が問題ではない。それは僕も、重々わかっている。わかっているがゆえに、能力としては僕は走れるんだということをこうやって書き記しておかないと、居られないのである。結局は精神の、我慢の、そしてそれはまともな大人の判断をする、ということがかけている。普通なら、ちょっと嫌になったくらいでは、走るのをやめたりしないだろう。第一、参加費用として1万円を払っているのだ。純粋にもったいない。方方への体面もある。

そういうことはわかっているのに、なんで僕は走ろうという気力をなくしてしまったんだろうか。それがわからない。もうどうでも良くなってしまった。今はただ、一人にしておいてほしい。そして一人で、こんこんと眠りにつきたい。

盛りだくさん

前回の日記からまた一週間が経ってしまった。今週は色々と山盛りだったので、日記を書いている暇がなかったように思う。

実にたくさんのことが決まったり、起こったりした。一つには来年からの仕事が確定した。まだ前の内定先に断りの連絡をしていないので、それだけが気がかりであるが、新しい方にもう「お願いします」と言ったので、もうこれは確定事項だ。

正直ワクワクしている。いろんなことが仕事をする中で起こりそうだし、それを楽しんで行きたいなと思う。楽しいことが仕事であるほうが、いいに決まっている。

もう一つは酔っ払って自転車を壊したことがある。

ふらふらと自転車を漕いでいたところ、電柱に激しく激突し、フレームを大破してしまった。費用は少なくとも6,000円はかかるらしい。厄介だ。
もともと貰い物の自転車である。ただで自転車ゲットできて嬉しいーとか思っていたが、すでにパンクを二回、サドルを盗まれること1回、その他鍵や(そのチャリにはもともと鍵がついていなかったのだ)ライト(これも盗まれたので丸損である)すべて含めるとすでに1万円を超える出費であって、それに今回のフレームであるから、すべて合計すれば、いい自転車が新品で買えてしまうほどの出費となった。

ただより高いものはない。

特にありません。

気づいたら5日も日記を書いていなかった。やはり継続することは苦手だ。

まあまず持ってして日記という物自体が自己満足意外の目的では、通常書かれないものであって、本来の僕は日記を必要としていないのかもしれない。というのは、今まで小中高大と生きてきて、日記というか文章を書きたくてしょうがない、という状況になったことが殆ど無いのだ。そこから察するに、僕には「文章を書くこと」は生来的なものとして備わっていないのだろう。文章を書くことは後天的に得られるものかもしれないので、これから変わっていくかもしれないけれど。

さて日記を書いていなかった間に起こったことを書いてみようと思う。しかし思ったはいいものの、特に思い出すことがない。

果たして僕はこの五日間なにをやっていたのだろうか。毎日何をやっていたのか思い出せないこの内容の無い日々。

とここまで書いて少し思い出してきた。まずは友達と紅葉を見に行った(二回目)。そしてお酒を飲んだ。その次の日は一日家で寝ていた。その次は朝野球をした。その次は家でゴロゴロして、夜にG氏の家に遊びに行った。そんな感じ。

後はチョロチョロと池田晶子の「考える日々」をよんで、わからないことがたくさんあるということを改めてわかるということを感じたり、仕事をやってみたり。まあ要するに特段大きな事件はなかった。だから日記を書こうと思わなかったのかもしれない。

一つ事件が合ったとすれば、G氏について問いただしたところ、やつの言うこととK氏の言うことが微妙に異なっているということだ。微妙に異なっているというか、巧妙にとても大事な部分を隠蔽している、というのが正しい表現だろうか。これを聞いて僕は少しG氏に同情した。

やはり双方の意見を聞くことは大切である。

庭の美しさ

前日に、Y氏から連絡があった。明日京都に紅葉狩りに行くから一緒に狩らないかとのことである。正直僕はその時点でかなり酔っ払っていて、明日もこれが残るだろうから、あまり家から外に出たくはなかったのだけれど、断るのもあれだったので、昼から一緒に出かけることにした。

2時頃合流し、大徳寺へ。大徳寺の中にはたくさん寺が入っている。その中でも最も有名、というか観光地として宣伝されているのが高桐院である。Y氏もそこに行きたいとのことであった。

高桐院は僕も好きで、たまに大学とゼミがないどうでもいい平日で、ちょっと気分を入れ替えたい時などに、遊びに行っていた。どうでもいい平日なので、全く人はおらずしかも別に紅葉シーズンでもなんでもないので、ただ青々と茂った竹林と木々と苔があるだけである。僕はこの庭がとても好きだった。

しかし今日見た高桐院は人が一杯で(当たり前である)ゴミゴミしていて、そして紅葉もあまり奇麗ではなく、端的に言えばがっかりだった。清潔さにかけていた。ただ雑然と京都じみたものが置いてある、そんな印象を受けたのである。

一方で、適当に入った寺(名前すら忘れた)はとても奇麗だった。

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まず誰もいないというのもあるし、庭自体もあまり派手な紅葉があるわけではなくて、しらすなと苔の島がある、とても質素なものだ。僕はこちらの方が美しく思えた。切り落とされた美しさというか、整理された美しさ、秩序がそこに見いだせたのである。(というと大げさか)

晩はお気に入りのやきとん屋がしまっていて、次に行った九州料理の店もしまっていて、ええい今日はついていない!と叫びながら、普通なら絶対行かない地下にあるスペイン料理のお店に入った。はいると40席ほどある天井の以外に高いお店で、客は夜の18:00を回ろうというのに誰もいない。これはやってしまったかと思ったが、出て来る料理はどれも丁寧に調理されていて、とても美味しかった。美味しすぎたのと腹が減っていたのもあって、二人でもりもりと食べまくった。最後に出てきたイカスミのパエリアも絶品であった。

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たまには食べログとかそういうのを見ずに挑戦するのも良いなと思った。よい日曜日である。