The sun rises again.

フィクション

がまん

最近我慢が全くできなくなっていることに私は気がついた。晩御飯を作りながらつまみ食いは当たり前。やるべきことをほっておいてやりたいことばかりする。人と会う予定を立てれば予定の当日になるととたんに会いたくなくなって、気がついているのにもかかわらず「あ忘れていた。」とすっぽかす。どうにも自分がやりたいことしか、やれなくなってしまっているようだ。これは、要するに幼稚園児と同じであって、即ち僕には、大人としての価値がない。

やりたいことばかりやってきた人生だった。部活も、勉強も、大学も、恋人も。就活だってそうだった。やりたいように、ただ自分が楽なように。問題なのは、どこかで決定的な破綻は起こらなかった、ということに尽きる。自分が楽なようにやった結果、普通は痛い目を見るのだろう。そしてそこから、頑張っていくのだろう。それが人間というものであるし、一回落ちて、落ちたところから人間として、自分がどういう存在なのかを、見つめなくてはならない。

その作業はとってもしんどいはずだ。自分が間違っているところ、誤っているところを、精査しなくてはならない。そしてやめようと思ったって、なかなか直るようなものでもない。「ああこういうところが駄目なんだよ」と思いなが同じ間違いをするのだろう。でもそこで諦めずに再び生きるのだろう。それが美しい、人間のあり方だ。

本質に蓋をして、ヘラヘラしている人間は、美しくない。醜悪だ。

自分に対しても本当のことが言えないのに、人に対して誠実であることが、果たしてできるだろうか。自分との対話ですら嘘をつく人間が信用できるだろうか。

うそつき

また一つ、嘘をついてしまった。今日は京都マラソンがあって、それに僕は参加する予定だったのだ。しかし、直前になって、どうでも良くなってしまった。別に43キロ弱を走ることに、なんの意味があるのだろうか。みんな馬鹿みたいに朝っぱらから集合して、幹線道路を貸し切って昼間で走って、ああよかったね、というだけのことだ。これの何が楽しいのか、皆目検討がつかなくなってしまったのである。

確かにそれに応募したのは、間違いなく自分であって、だから彼女にもこんどマラソン走るんですよということを言っていて、見に来てくれると彼女は言ってくれていた。そして、ああ僕は、嘘をついた。[風邪を引いた]のではないのだ。僕は[走る気力がなくなった]のだった。走る気力がないというのも、広義の体調不良とも言えなくもないが。しかしそれは一般に言えば[どうにかなること]であって、今回の僕の判断は[自分勝手な判断]ということになるだろう。そのぐらいはわかっている。

多分走ろうと思えば、走れるのだろうと思う。数か月前から、一週間のうち少なくとも4日は10キロほどを走り込むようにしていたし、最長でも20キロは走ったことがある。いいやこういうスペック上の[走れる]が問題ではない。それは僕も、重々わかっている。わかっているがゆえに、能力としては僕は走れるんだということをこうやって書き記しておかないと、居られないのである。結局は精神の、我慢の、そしてそれはまともな大人の判断をする、ということがかけている。普通なら、ちょっと嫌になったくらいでは、走るのをやめたりしないだろう。第一、参加費用として1万円を払っているのだ。純粋にもったいない。方方への体面もある。

そういうことはわかっているのに、なんで僕は走ろうという気力をなくしてしまったんだろうか。それがわからない。もうどうでも良くなってしまった。今はただ、一人にしておいてほしい。そして一人で、こんこんと眠りにつきたい。

盛りだくさん

前回の日記からまた一週間が経ってしまった。今週は色々と山盛りだったので、日記を書いている暇がなかったように思う。

実にたくさんのことが決まったり、起こったりした。一つには来年からの仕事が確定した。まだ前の内定先に断りの連絡をしていないので、それだけが気がかりであるが、新しい方にもう「お願いします」と言ったので、もうこれは確定事項だ。

正直ワクワクしている。いろんなことが仕事をする中で起こりそうだし、それを楽しんで行きたいなと思う。楽しいことが仕事であるほうが、いいに決まっている。

もう一つは酔っ払って自転車を壊したことがある。

ふらふらと自転車を漕いでいたところ、電柱に激しく激突し、フレームを大破してしまった。費用は少なくとも6,000円はかかるらしい。厄介だ。
もともと貰い物の自転車である。ただで自転車ゲットできて嬉しいーとか思っていたが、すでにパンクを二回、サドルを盗まれること1回、その他鍵や(そのチャリにはもともと鍵がついていなかったのだ)ライト(これも盗まれたので丸損である)すべて含めるとすでに1万円を超える出費であって、それに今回のフレームであるから、すべて合計すれば、いい自転車が新品で買えてしまうほどの出費となった。

ただより高いものはない。

特にありません。

気づいたら5日も日記を書いていなかった。やはり継続することは苦手だ。

まあまず持ってして日記という物自体が自己満足意外の目的では、通常書かれないものであって、本来の僕は日記を必要としていないのかもしれない。というのは、今まで小中高大と生きてきて、日記というか文章を書きたくてしょうがない、という状況になったことが殆ど無いのだ。そこから察するに、僕には「文章を書くこと」は生来的なものとして備わっていないのだろう。文章を書くことは後天的に得られるものかもしれないので、これから変わっていくかもしれないけれど。

さて日記を書いていなかった間に起こったことを書いてみようと思う。しかし思ったはいいものの、特に思い出すことがない。

果たして僕はこの五日間なにをやっていたのだろうか。毎日何をやっていたのか思い出せないこの内容の無い日々。

とここまで書いて少し思い出してきた。まずは友達と紅葉を見に行った(二回目)。そしてお酒を飲んだ。その次の日は一日家で寝ていた。その次は朝野球をした。その次は家でゴロゴロして、夜にG氏の家に遊びに行った。そんな感じ。

後はチョロチョロと池田晶子の「考える日々」をよんで、わからないことがたくさんあるということを改めてわかるということを感じたり、仕事をやってみたり。まあ要するに特段大きな事件はなかった。だから日記を書こうと思わなかったのかもしれない。

一つ事件が合ったとすれば、G氏について問いただしたところ、やつの言うこととK氏の言うことが微妙に異なっているということだ。微妙に異なっているというか、巧妙にとても大事な部分を隠蔽している、というのが正しい表現だろうか。これを聞いて僕は少しG氏に同情した。

やはり双方の意見を聞くことは大切である。

庭の美しさ

前日に、Y氏から連絡があった。明日京都に紅葉狩りに行くから一緒に狩らないかとのことである。正直僕はその時点でかなり酔っ払っていて、明日もこれが残るだろうから、あまり家から外に出たくはなかったのだけれど、断るのもあれだったので、昼から一緒に出かけることにした。

2時頃合流し、大徳寺へ。大徳寺の中にはたくさん寺が入っている。その中でも最も有名、というか観光地として宣伝されているのが高桐院である。Y氏もそこに行きたいとのことであった。

高桐院は僕も好きで、たまに大学とゼミがないどうでもいい平日で、ちょっと気分を入れ替えたい時などに、遊びに行っていた。どうでもいい平日なので、全く人はおらずしかも別に紅葉シーズンでもなんでもないので、ただ青々と茂った竹林と木々と苔があるだけである。僕はこの庭がとても好きだった。

しかし今日見た高桐院は人が一杯で(当たり前である)ゴミゴミしていて、そして紅葉もあまり奇麗ではなく、端的に言えばがっかりだった。清潔さにかけていた。ただ雑然と京都じみたものが置いてある、そんな印象を受けたのである。

一方で、適当に入った寺(名前すら忘れた)はとても奇麗だった。

f:id:knockoutcoffee:20161121103054j:plain

f:id:knockoutcoffee:20161121103114j:plain

まず誰もいないというのもあるし、庭自体もあまり派手な紅葉があるわけではなくて、しらすなと苔の島がある、とても質素なものだ。僕はこちらの方が美しく思えた。切り落とされた美しさというか、整理された美しさ、秩序がそこに見いだせたのである。(というと大げさか)

晩はお気に入りのやきとん屋がしまっていて、次に行った九州料理の店もしまっていて、ええい今日はついていない!と叫びながら、普通なら絶対行かない地下にあるスペイン料理のお店に入った。はいると40席ほどある天井の以外に高いお店で、客は夜の18:00を回ろうというのに誰もいない。これはやってしまったかと思ったが、出て来る料理はどれも丁寧に調理されていて、とても美味しかった。美味しすぎたのと腹が減っていたのもあって、二人でもりもりと食べまくった。最後に出てきたイカスミのパエリアも絶品であった。

f:id:knockoutcoffee:20161121103146j:plain


たまには食べログとかそういうのを見ずに挑戦するのも良いなと思った。よい日曜日である。

自由と告白

昨日届いたJSミルの「自由論」を読む。一行一行が刺さる文章で、刺激的かつ内容もとてもおもしろくて、一気に読んでしまった。

多数派の感情が依然として純粋で激しいところでは、少数は多数に従うべしという要求はほとんど弱まるところが無いのである。
強制が認められるのは、唯一、他の人の安全を守るのが目的の場合のみである

個人の自由は社会から守られる必要があり、その自由が妨げられる場合というのは、他の人に迷惑をかけるときだけである、というのはよく聞く話である。しかし実際には社会の慣習や多数派の理論によって、個人の自由は、法律+世論によって不当に制限されてしまっている、というところまで話を持っていき、そしてそれが明確に記述されているのは、読んでいてとても気持ちが良かった。

夜、K氏、N氏と晩御飯に行く。ピザをもりもりと食べながら、共通の友人で、今少しこんがらがったことになっているG氏の話をした。端的に言うとこの4人(僕を含む)は友達だったのだけれど、G氏がK氏に彼氏ができたことを聞き、その訊いた場で告白をした。K氏は当然断り、G氏はそれに憤ったのかわからないが、様々なつながりを一方的に遮断している、という状況である。

K氏はやつのやることなすことに本当にうんざり、といった感じで、話とそのログ(ログが残るというのは怖いものである)を見た限りでは、まあG氏はあかんよなといった感じであった。

グチグチと、「自分がなぜ告白をしたのか本当に申し訳ない、僕やN氏にも申し訳ない(なぜ僕とN氏が出てくるのかが謎である)。でも本当に好きで、考えると夜も眠れない。一方的に色々と遮断したことは本当に申し訳ない。僕やN氏にはこれを言わないでくれ」など。


言い方は悪いがストーカーか、それに類する迷惑防止条例違反であった。

彼がなぜこうなってしまったのかを色々と考えていた。彼は普通にしていれば、まあいいやつなのである。そんなやつがなぜこうなってしまったのか。
まあ別に結論が出るわけではないし、結論を出すつもりもほんとうの意味ではないので「こんなことされると友達じゃいられない」とか、「これで断ったときになにかあったら責任が取れない」というK氏の話を聞くに徹していた。

問題の一つは、G氏が人の言うことを聞かないというところにある。というよりも、自分の行動を相手が受け入れてくれることに対しての疑念が全くない。普通に考えれば、3スクロールぐらいしないと全文が表示されないような、長文のメールを送るなんてしないだろう。しかし、おそらく彼は、それを相手が読んでくれるであろうことに対して疑問をいだいていない。もしくは抱いていても、それを送れば相手がどう思うかと、自分が送った時の達成感とか気持ちよさを天秤にかけたとき、自分の気持を優先してしまっている。

ミルの自由論ではないけれど、これは「相手に対して迷惑をかける」状況であるから、このG氏の行動は法律によって制限されないのであれば、僕やK氏、N氏といった世間から、罰則を受けざるをえないのだろう。またやつを含めて、飲み会をしたいのだが、それはいつに成ることだろうか。G氏がおとなになってくれることを望む。

僕の大好きな青髭

この世界はピラミッドの集まりだ。生まれ落ちた途端から、俺達はピラミッドに圧しひしがれている。家柄のピラミッド、貧富のピラミッド、能力のピラミッド。そして、幼稚園から大学へと連なるピラミッドの階段を、一段一段登るという形でおれたちは成長し、そのあとは会社や権力組織のピラミッドが待ち受けている。そしてその無数のピラミッドが集まって出来上がっているのがこの世界で、おれたちはみんなそのピラミッドの階段を息せききって駆け上らされ、そして自らその巨大な弱肉強食のピラミッドを創る小さな石になる。そんな世界のどこに自由があるんだ。(148p)

庄司薫の作品は、全体的に青臭い。それは扱っている題材がそうであるからしょうがないのだけれど、この青髭に関しては、その青臭さが特に磨きがかかっているように思える。これは別に悪い意味ではなくて、若者というある種の人間たちがぶち当たる壁について、丁寧に描写しているということを指して言っている。そしてその若者というのに僕も含まれている。

始まりはよくある若者っぽい行動である。自殺だの奇抜なファッションだの世の中に迎合できない気持ちだの。そしてそれに対抗する社会の代表として、自殺を記事にしようとする新聞記者が登場する。ここだけ見れば、すごく浅いただの小説であるのだが、そこから先が面白い。

まず第一に、若者っぽい行動をしている人間が、若者が失敗することを一番良く知っていること、そしてその若者を追い立てる社会の側として立ち現れているはずの新聞記者が、実は一番若者らしい気持ちを捨てられていないことが明らかになるのである。

この逆説こそ、人間が生きていく上で一番つらいことの一つであろうと、僕は考えている。
希望を持ち続けるがゆえに絶望して死にたくなり、絶望を絶望として痛いほど知っているがゆえに、死にきれない。
単純な若者対社会という二項対立が、この仕掛により立体的に立ち上がって、もはや敵が何なのか、よくわからないという状態になる。

人生というのは、若さ対社会なんて簡単な構造では理解できないし、そんなふうなことを期待した貴方は、社会のことを本当に考えていますか?という風に作者に問われているように、僕には感じられた。

そして実はこの敵というはつまり、人間が生きているということ、生きるという行為に常につきまとうことであると、物語では語られる(少なくとも僕にはそう思える)。様々なメタファーが飛び交い、正直すべて理解できているとは到底思うこができず、推察であるが、作者はこの作品を通して、人間が生きることの大変さそしてそれを矮小化させることの意味の無さを問いかけているのではないか。そう感じた。